橋爪大三郎『はじめての構造主義』
位置423
わが国の時枝誠記も、ソシュールに触発されて仕事をしたのは有名だ。
位置430
ソシュールは、ことばが意味をもつ(言語として機能する)のに、歴史など関係ないではないか、と言う。ふつうにことばを話すのに、そのことばが過去どのように用いられてきたか、いちいち知らなくても平気だ。ある時点で、ある範囲の人びとに規則が分けもたれていれば、それで十分である。
位置443
言語は、物理的な現象であろうか? 言語は、物質的な根拠によって支えられているのだろうか? 答えは否、である。 言語が物質世界と接点をもつとしたら、ふたつの局面がありうるだろう。ひとつは、言語の指し示す対象が、物質的な存在であるという局面。もうひとつは言語が、物理的な音声によって成り立っている、という局面。ちょっと考えると、どちらももっともなので、ついつい、言語も物理現象である(だから、自然科学的な方法で研究できる)と考えたくなる。 ところが、『一般言語学講義』によると、どちらも間違いである。
位置458
つまり、世界のあり方は、言語と無関係でなく、どうしても言語に依存してしまうのである。われわれはつい、言語と無関係に、世界ははじめから個々の事物(言語の指示対象)に区分されているもの、と思いこみがちだ。ところが、そんなことはないので、言語が異なれば、世界の区切り方も当然異なるのだ。
位置461
ある言葉が指すものは、世界のなかにある実物ではない。その言語が世界から勝手に切り取ったものである。
位置474
たとえば、日本語だと/ r/と/ l/の区別は問題にならないが、英語でこれを区別しなかったら大変だ。大切なのは、音そのものではなくて、音のなかにある区別である。音だけで区別がなければ、そもそも言語の成立ちようがない。 ところで、その区別なのだが、いまのべた例でもわかるように、どこにどういう区別をたてるかは、言語が異なればぜんぜん違ってくる。区別されるのは物理的な音声の特徴なのだが、どういう特徴を区別する(しない)かは、決まっていない。つまり、区別のたて方自体、恣意的である。言語を建築にたとえるなら、単語や文(建物)は、単位となる音(レンガ)の組合せで出来あがっている。ところで、その音を存在させているのは、結局いまのべたような区別にほかならない。区別があればこそ、/ r/と/ l/は別々の音(レンガ)である。区別がなければなんでもない。このいみで、言語には、区別に先立つ実体などないのである。
位置483
言語のなかには、いくら探しても、区別しか見つからない。このことをよく、「言語は差異のシステムである」とか「対立のシステムである」とか表現する。言語の恣意性を支えるのは、このメカニズムである。 位置514
日本語のなかで、「あ」や「犬」がどこにどのくらいの場所を占めるかを、ソシュールは「価値」とよぶ。市場で取引される商品の価値と似たようなものだ、と言うのだ。誰かが大根を売ろうとしている。大根がどんなにおいしいか、口をすっぱくして説明しても、その大根の価値は決まらない。ニンジンなら何本、ゴボウなら何本、……と交換できるかがわかって、はじめて大根の価値も決まったことになる。つまり価値は、そのもの自身によってでなく、市場のなかで他のものととり結ぶ関係によって決まるのだ。