村上春樹の物語観
物語は、僕らの意識がうまく読み取れない心の領域に、光を当ててくれます。言葉にならない僕らの心を、フィクションという形に変え、比喩的に浮かびあがらせる。それが、僕ら小説家がやろうとしていることです。それは例えばこういうことなんだよ、というのが、小説の基本的な働きです。『例えば』という、一段階置き換えられた形でしか表現できないものがあります。 だから、小説というのは、直接的には社会の役にはほとんど立ちません。何かがあっても、即効薬やワクチンみたいなものにはなりません。でもね、小説というものの働きを抜きにしては、社会は健やかに前には進んでいけないんです。
というのは、社会にもやはり、心というものがあるからです。意識や論理だけではすくいきれないもの、すくい残されてしまうもの。そういうものをしっかり、ゆっくりすくい取っていくのが、小説の、文学の役割です。心と意識の間にある隙間を埋めていくのが小説です。 ですから、小説というのは1000年以上にわたって、いろいろな形で、いろいろなところで、人々の手に取られてきました。小説家という職業は、まるでたいまつのように受け継がれてきました。皆さんの中には、そのたいまつを受け継いでくれる人がいたら、あるいはそれを温かく大事にサポートしてくれる人がいたら、僕としてはとてもうれしいです。