暇だったら教養を身につければいいけど
「能動性というのは、それが発揮される段階で目的を設定してしまうので、自分の限界を超えることができない」
「自分の関心とは関係なく、ただやっているから聞いてみる。そうしたある種の受動的な開放性がないと。」
プラトンのおもしろさを簡単に言うと、彼のテクストというのは、哲学書というより、ソクラテスを主人公とした一種の物語劇なわけですね。だからソクラテスの言葉だけに注目してもしょうがなくて、登場人物にくわしくなるとそのおもしろさがわかってくる。プラトンが本を書いたのはソクラテスが死んでから後ですが、彼はそこで、時代を30年とか40年とか遡って、元気だったころのソクラテスを一種の狂言回しとして使い、同時代の有名人たちを集めて自分の政治的な主張をしゃべらせているわけです。当時のアテナイ市民にとっては、「こいつとこいつを会わせるんだ、ヤベー」みたいな感じなんですよ。今の日本でいえば、昭和の末を舞台にして手塚治虫と中曽根康弘に原子力について語らせるとか、そういうことをやっているわけですね。
ずっと一つの大きな物語がくり返されているわけです。ようは資本主義からの脱却論。前は共産主義革命、今度はシンギュラリティによって、人類はついに必要性から脱出し、本当の意味で自分を追求できる解放された世界が来るというストーリー。これは思想史的にはキリスト教の終末論のバリエーションの一つで、全部かたちが同じです。近代になっても延々と千年王国論がくり返されているというだけの話で、それが神の救済だったり、共産主義革命だったりNFTだったりするっていうだけです。
能動性というのは、それが発揮される段階で目的を設定してしまうので、自分の限界を超えることができない。だから絶対に受動の部分を確保しなきゃいけなくて、与えられるものをあまり判断せずに聞くというか。上田さんが劇場や大学のような場所が必要だと言うのもそういうことです。自分の関心とは関係なく、ただやっているから聞いてみる。そうしたある種の受動的な開放性がないと、教養は身につかない。 そのためにはムダを許す余裕がなければいけない。自分の人生と関係がない、ムダなことに好奇心を持つ余裕。その心の傾きさえあれば、自然と知識はついてくる。ただ教養がある状態を「目指そう」とするとうまくいかない。
最初はこうだと思った。ところがいろいろ調べてみると別のことを言っているひとがいた。そっちが正しいのかと思っていたら、今度はまたべつのひとが正しいと思えてきた。どんどんわかんなくなってきたぞ……みたいな迷宮的な体験。哲学に限らずあらゆることに言えるけど、それこそが実はものを知るという体験の本質です。だから、わからないことに対して恐れを抱かないというのはすごく大事なことだと思いますね。