揺るぎない正義を信じることに違和感や後ろめたさをもってしまいます
当事者には事態を単純化し、自己ツッコミを抑える権利がある。相対化の声を無視する権利がある。否、それは義務かもしれない。世間にはさまざまな問題があります。それぞれに当事者がいてなにかを訴えています。おそらくは彼らもひそかに逡巡を抱えているでしょう。自分だけが正義ではないと思うこともあるでしょう。でもそんな疑いは抑えて、正義を信じているフリをしなければならない。なぜならばそうでないと問題が繰り返されるからです。次の世代、次の被害者が困るからです。当事者であるとは、自分の現在の経験を訴えるだけではなく、そのような未来への責任を背負い込むことでもあり、だからこそ苦しいのだとぼくは思います。
裏返せば、そんな権利あるいは義務は当事者にしか許されない。世の中の問題のほとんどはおそろしく複雑です。調べれば調べるほど身動きが取れなくなる。そのような無知と自分の無力を自覚しながら生きる、それこそが法と倫理の基礎にあるべき感性であり、「答えは自明、おれが絶対に正しい、文句あるやつは論破するよ」とばかりにあらゆる問題に首を突っ込むのは正義の対極にある態度です。当事者性は自己ツッコミに優先させてよい。でも友敵対立のゲームは優先させるべきではない。