ショーペンハウアー『読書について』
自分で考え、答えを出すこと
さんざん苦労して、時間をかけて自分の頭で考え、総合的に判断して真理と洞察にたどりついたのに、ある本を見たら、それが完璧な形でさらりと書かれていた──そんなこともあるかもしれない。だが自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、百倍の値打ちがある。
第一級の人物に特有の際だった特徴は、判断をすべて自分で直接下すことだ。こうした人物が持ち出すのはどれもみな、自分の頭で考えた結果であり、それは話しぶりのいたるところにあらわれる。かれらは君主のように、精神の王国に直属している。しかし凡庸な人間はこうした精神の王国の直接支配を阻まれた存在で、それは本人の特徴が刻まれていない文体からもわかる。 そういうわけで自分の頭で考える真の思索家は、君主に似ている。直接判断を下し、自分の上に立つ者を認めない。彼の判断は君主の決定のように、みずからの絶対的力に由来し、彼自身が直接下したものだ。換言すれば君主が他人の命令にしたがわないように、こうした真の思索家は権威をうけいれず、自分でたしかめたこと以外、認めない。これに対して、さまざまな世論や権威、偏見にとらわれた凡庸な脳みその持ち主は、法律や命令に黙々としたがう民衆のようだ。
精神の産物、著作の価値をさしあたり評価するのに、必ずしもその書き手が「何について」「何を」考えたかを知る必要はなく(そうしたら全作品を通読せねばなるまい)、まずは「どのように」考えたかを知れば、じゅうぶんだ。この「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティーを精確にうつし出したのが、文体だ。文体はその人の全思想の外形的特徴であり、「何を」「何について」考えていようとも、つねに同じはずだ。