WRM 2021/09/05
「知的生産の技術の体系化に向けて その1」
先日、このメルマガの感想をメールで頂いたのですが、非常に示唆に富む内容でした。すごく簡単に言えば、「『知的生産の技術』からまなざしを別のものに移した(つまり一旦捨てた)ことと、原稿を毎回書き直した(つまり一旦捨てた)ことが呼応していますね」というお話だったのですが、それはまったくその通りだと思ったのです。
でもって、そうやって指摘していただけると、「たしかに」と思うのですが、文章を書いている最中はその呼応にまったく気がついていませんでした。指摘されて、はじめて「発見」できたような感覚です。眼鏡の曇りをとってもらったかのような感覚。
ありがたい。
こちらも"誰かが見ている感覚"を図らずも得ることができた。自分用のメモから少し飛躍して、他人を意識した文章を書きたいと少しずつ思えるようになってきた。
どちらも「実際」を無視して、脳内の「こうだったらいいはずに違いない」を基礎にしてしまっている点が共通しているのです。でもって、そういう発見はまさに「記事を書いた」からこそ生じたものだと考えられます。
なんであれ、自分の考えを人に読める形で提出しておくことは、まず「自分にとって」大きな価値を持ちます。他の人からのフィードバックがくることもありますし、単に自分がそのことについて別の角度から考えるチャンスを得ることもあります。
だから小さくとも、こつこつ考えていることを文章で書き表していくことは大切です。
まずは自分のためのメモから。文章が書けるまでのステップ。
~~~読後会~~~
「読書会」という言葉のイメージではなく、いっそ「読後会」と呼ぶにふさわしい、本にまつわるトーク・セッションをやってみたい、と。
面白い!さっきの話題に合わせれば、まず話すこと。同じ本を読んだという共通項が会話を可能にする
■不完全なシステムであったがゆえに
『知的生産の技術』が大きくヒットし、人々に読まれ、ある種の思想的影響を与えたのは、そこで著されたものが「不完全なシステム」だったからではないか、という考えを私が持っている、ということだ。
エヴァのオマージュの数々は監督が過去の作品(失敗作も含めて)を通っていることの表明であり、それらを自らの手で再現する儀式なのだという岡田の指摘を思い出した。
贈与とは、このようにして作られるということなのかもしれない。
これまで書いてきたことをまとめたいのは、単に日々のアウトプットを資源にしてより大きなアウトプットを作りたい(二毛作的欲求)からだけではない。そうではなくて、インターネットでは散り散りな状態になっている情報をまとめることで、これから知的生産の技術に親しむ人に役立つ形で情報を提供したいのだ。
根本的に意識が読者に向いている。
自分の知的好奇心以上に、読者のために書きたい、と。
だから僕らが読める文章を書けるのであり、僕らは自分のことのように読める。
いや、知的好奇心を満たしながら、その好奇心を読者に共有したいという欲求。著者と読者はこのように結びつくのか。
#WRM #倉下忠憲