📖『移民たち』W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳(白水社)
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とても良い。アリステア・マクラウドを初めて読んだ時にすぐに好きになったのだけれどあのような深度で、でも感触はまた全然別のものだ。好きな作家のひとりになりそう。
アーデルヴァルトの章で止めてしまったことも手伝ってか、少し戻っては読み直し、また戻っては読み直しを何度しても目が滑るだけで風景が感覚に入ってこなかった。美しい描写だなと思っても、字面ばかりを目に映したまま進めてしまった。
でも最後のアウバッハの章に入ってから再びぐっと惹かれた。
アウバッハのアトリエに訪ね行った時に彼の作品を見た描写、キャンバスに何度も塗り重ね、摺りこみ、打ち込むように塗ってはまた全部を削ってしまう。次の日にはまた黒炭を紙にこすり込んではまたそれをすべて拭き取ってしまう…。そうして彼のキャンバスの周りには絵の具の屑のゆるやかな丘ができている、そこにとても惹かれた。すべてを削り取り、破り取ってしまうのだけれどかろうじて、微かに残ったものが疵のようにこちらをじっと覗いてくる。
四十回かそこらは描き直し、というべきか描いては紙に擦りこみ、その上にまた何重にも描き重ねるという作業のすえに、完成をみたからというよりは精根つきはててアウラッハがついに絵筆をおいたとき、そうした肖像は、見るものにこんなことを思わせたーーーこの肖像は先祖たちの長い長い列、焼かれてになって、それでも痛めつけられた紙の中でなお亡霊として彷徨いつづけている、灰色の顔をした先祖たちの長い列から浮かびあがってきたのだと。(p175)
沖潤子さんの作品やOlivier de Sagazanさんの作品を好きなこととこの文章にある行為に惹かれるものは同根であるという気がする。 #何に惹かれるのか p178(砂漠のキャラバンを描いたフレスコ画について)
画家は技術がおぼつかないわりには難しいパースペクティブを採っており、ために絵は人間たちも駱駝たちも輪郭がどことなくいびつになっていて、眼を半眼にして眺めていると、あたかも眩しさと暑さでゆらゆらと揺らめいている本物の蜃気楼を見ているような気持ちになったものだった。
読み終えたあとの訳者あとがきの
みずから故郷を去ったにせよ、歴史の暴力によって故郷を奪われたにせよ、移住の地に一見とけ込んで生活しているかに見える移民たちは、三十年、四十年、あるいは七十年の長いタイムスパンをおいて、突然のようにみずから破滅の道をたどる。
がとても心に残った。実際身近にいる(あるいはいた)人を浮かべずにはおれなかったし、私だって果たして、と思う。
読みながらやはりベルリンで過ごした(そしてドイツを拠点にヨーロッパのいろんなところに旅した)ときのことを思い出した。まだ今よりも(私にとっては)旅が手探りで、そこに赴かなければなにもはじまらなかった時代。もう20年も前のことなんだと驚く。
私が知っているあの時代の空気はここに出てくる写真ほど昔ではないにせよ、今の景色よりは随分こちらに近い。旧東ドイツ側に住んでいたからだろうな。当時はまだ開発途中で黒くて暗い土地が多く残っていた。(冬だったからというのもあるけど)
それからまだ世界大戦の名残が土地にも人にも色濃く残っていて、そのことに初めて肌で触れて衝撃をうけたのだった。
中東で今まさに起こっていることと読むことを行き来すると胸が塞ぐ。
…とはいえ豊かな彩りの間を彷徨うのは楽しかった。