2025-11-09
クリエイションが難航している。コミュニケーションの点で(笑)
元になるビデオを何度も見ながらアイデアをまとめて行ったのだけれど、最初の3シーンは全部却下。もちろん却下されることはまったく構わない。私は彼女の作品を豊かにするために存在しているわけだから、作品にとって違うのであれば、却下するべき。
私は作品全体の構想を練って挑むタイプなので、最初の3シーンを却下されたらそれ以降のシーンは役に立たないものとなる。だから「じゃあ4シーン目についてはどうしたい?」と聞かれても、いや、3シーン目まで考えてきたことを言ってみたけれどあなたの考えとは違うみたいだから、もうアイデアはないよと言う。すると「君はいつも受け身でアイデアを出してくれない」と言われてしまう。
私のアイデアを違うと言うならもうすでに確固たるビジョンがあるのだと思う。ならばそれを元にイニシアティブを取ってくれて構わない、そこにアドバイスしながらあなたのビジョンの実現を手助けするよと言う。でもそうじゃだめみたい。あくまでもふたりでいちから構築していきたいんだと言う。
彼女は歴史や人物などから作品を作ろうとしている。私はそういうものから作品を作ることはない。もっと漠然とした概念や体の感覚、洞窟の絵のようなものかもしれない。興味を持っている時間軸も違えば哲学も違う。だからこそお互いに興味を持っているはずなのだけれど、けれどこんなに作家性が違うのだから一緒にゼロからものを作るのは無理だと私は思う。タルコフスキーはコッポラと一緒に映画を作ったりしない。仮に作ったとしてもどっちの良さも薄まるか、まあでももしかしたらめちゃめちゃすごいものができあがるかもしれない…のだけれど、それはタルコフスキーとコッポラだからであって、私はタルコフスキーでもコッポラでもない。それに私は作家として手数が多い方でも、何でもすぐ形にできるタイプでもない。別に一匹狼でいたいわけではないけれど、ものをつくるときに、それも本当に根っこのことをする段階のときに、誰かと一緒にできる作業を思いつけないのだ。
言葉のやりとりはもうこれ以上しても仕方がない、あなたのビジョンを絵にしていくために実際動いてみよう、とにかく実践してみようと言うのだけれど、最終的にどうしても言葉でのやりとりにたどり着く。
私はピノチェトがどういう人かを知ることはできる。でもあなたの哲学の何と繋がっているのかははっきりとは分からない。舞台上でその人物にまつわることをどういうかたちで表したいのか、身体を使ってどんな絵を見たいのか、それを知っているのはあなただけじゃないか。その絵を私に決めてくれといわれても困惑するばかり。私は私の見ているものしか実現できないタイプなのだ。
哲学の道筋を言葉にして書類に書くための相棒がほしいならそれは私じゃない。まず第一に言語ができなすぎる。第二に吸収してきた文化が違いすぎる。フランスの詩人や作家や哲学者のことを語りたいのであればそれについて無知な私に相談するのは間違いだ。第三にそういうことのためにドラマトゥルグという役職がある。つまりそれは専門職として認められているくらいに高度な仕事だ。
#クリエイション
以下個人的作業メモ
/amayadorinote/📖Ce que nous avons perdu dans le feu Mariana Enriquez
#11-09