2025-05-04 チベット仏教、チベット密教
チベット仏教に傾倒しているというCからドルドーニュ地方に寺院があることを教えてもらった。
こちらでも時々仏教の思想に心を惹かれている人から話を聞くが、自身にとってのみ(または人間にとってのみ)都合のいいこと、心地の良いことばかりをピックアップしている向きがあると気になってしまう。禅や瞑想を己の人生を肯定するための道具として単純化すると大きく見失うことがあるという気がする。それを分かりながら、自身の都合に合わせたり、簡単なかたちにしたりして使うのはいいと思う。分かっていても楽なところに滑り落ちてゆくのが人の常なので、充分な注意が必要ではありそうだけど。
深く理解したいと考えていそうだからなおのこと、清濁合わせ飲まないとそこには到達できないんじゃないかとつい問うてみたくなる。緊急事態にあってそんな回り道ができない人ももちろんいると思う。そういう人にとっては取り急ぎの薬になればいい。でも思想に割く余裕が、時間的にも経済的にもあるのであれば、ただ近道をして自分だけを豊かにする、またはもっと悪ければ自己満足で終わるのはもったいない。真理を求めることは自己の生だけに目を向けることではないはず。
別にもっと真面目に取り組めとか苦しめとか言うわけではないし、さらに、仏教はアジア発のものだから自分の文化を捻じ曲げて理解してほしくないとかそんなことじゃ全然ない。心地の良いところから出てみること、その先の迷いににこそその道の真髄を味わえるうまみがあると思う。
って、どの場所からものを言っているのかわたしは。
意地悪な気持ちじゃなくて興味として、西洋の人は火葬すら嫌うくらいに死後でも身体に価値というか意味を置いている。でも仏教の教えの到達点はすべて滅却すること、無となることなんじゃなかったかなと思うので、そういうところをどう折り合いをつけているのかを訊いてみた。もちろん日本だって多くの人は仏教みたいな形で死後を扱うことが多いくせに、儒教の影響が混ざっているので死後の体をただの物質と思ったりはしない。そういう意味で、都合よく仏教を取り入れているものの代表格のようなものだとは思うんだけど、そういうことも含めて、フランスの、今はそうではないけれどもともとはキリスト教の影響も大きかった国の人にその感覚の落差をどう越えていこうとしているのかを訊きたかった。
結果的にはそれに向けての答えは得られなかった。多分私の質問の意味が伝わらなかったんだと思う。家族にとっての思い出は大事だから、というような話から先の次元には進められなかった。
チベット密教の、人生には何度か大きな修行の機会があるが死の瞬間こそ最大の悟りのチャンスであるという考え方に興味がある。死にゆく人に向かって高僧がずっと語りかけ、より高い次元の精神へ昇るための手助けをするのだそうだ。恐れることなく、静かに、……どんなふうにその人がその言葉を聞いてその精神がどこに行くのかはわからないけれど、死がただの終焉ではなく引き続き静かに見つめるべき過程であるというのは、すごくいい。私も死の瞬間には色々考えてみよう、って思ってる。一度しかないから素人の私にうまくやれるかわからないけど。周りに高僧がいないからひとりでやってみるしかない。
#05-04