2025-03-22 不安な猫、固有の物語
夜道、民家の窓の外にくるんと丸くなっている猫がいたのでかわいいなあと近づいたら丸い目をいっぱいに見開いて不安げだった。雨戸に締め切られた窓のところに座っていたんだけど、そういえば夕方にも同じ場所に小さくなっていたのを思い出した。飼い主が帰ってくるのをじっと待っているのかもしれない。まさか週末、猫を置いてでかけたんじゃあるまいね。
夜中に知らない大きな人間がなにやら言いながら近寄って来たら怖いよね。ということでそっと離れた。時々振り返りながら歩いたが、向こうでも私たちを気にしているみたいで、角を曲がるまで三角の耳が見えていた。
続きと言っても、登場してくる人々の名前がわからなくなってきたので最初から読む。人が出てきたら名前をメモし、何をしたひとだったかを書き添えて家系図を作っていく。
もしかして意図的になんじゃないかと思うけれどまず、母方の祖母、とか祖母の妹の父親、兄弟の息子、などと記述されてからのちの章で名前が出てくる。関係性だけが色のないまま組み上がって、あとから顔が当てはまっていくような感じだ。顔があてはまった途端にそのエピソードの色が強まる感じがするのが不思議だ。名前は別個に組み上がっていたと思われたパーツ同士をつなげる。そうして少しずつ全体が肉付けられていく。
前回読んだ『ムシェ』とは違い、今回は著者本人の家族の物語がひもとかれてゆく。ある人のあるエピソードが時代や場所を超えてまた別のある人のエピソードを呼び起こす。どんな人の体験もほかには替えがきかないくらい特異だ。事実は小説より奇なりというけれど、どうしてそんなことが、この場所で、このひとに、起きるのだ。ということばかりなのかもしれない。世界は。
そして私はひとの日記にそういうものを求めているのかもしれない。
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空が不穏になってゆくのを部屋から眺めるのが好きだ。遠くからごおっと風が渡ってきて、庭の木に辿りつき、枝の影が揺れて部屋が暗くなる。のんきに寄り添っていた鳥はいつのまにかいない。追いかけるように雨音が屋根を広く叩き、窓ガラスに斜めに刺さる。もう遠くの景色は見えない。昨日の、目をきょろきょろさせていた猫は家の中に入れたかな。
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『ビルバオ…』の続き。
立ち止まりたくなる箇所が多くてなかなか進まない。
父親が海で落とした金の指輪がある日釣ってきた魚の腹から見つかったという話を元に詩を書いたところ、多くの同じような話が寄せられたのだという。魚と金の指輪の話は映画『ビッグ・フィッシュ』にも登場する。宗教的な逸話の中に同様の話があるので、多くはその話に触発されたものではないかというようなことがここには書かれている。 本当の体験なのか、実際に存在したものなのかはともかくとして、こういう似たようなシンボルに集約してゆくのは面白いなと思う。自分が見たもの、体験したことが「そういうものだった」と瞬間に錯覚する、または体験を話しているうちにそういうことになってゆく、いつのまにか似たような話にカテゴライズされてゆく…その現象自体が面白いと思う。怪談話の一部がそうであるように、その文化の中だけに登場するおばけがいるのもそういうことなんだろう。
でもそう考えたら、私が「怖いな」とか「気持ちが悪い」と思う怪談は、そのカテゴライズには収まらないもの、または収まっているように一見みえるのにむしろ反転しているみたいな感触のあるもの、なのかもな。
そして私が惹かれる物語も、そういうものなのかも。
理由はなくても、説明はつかなくても、どこにも分類できなくても、その人の認識には存在したもの。
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3月は調子に乗ってこの日記様のメモをたくさん書いたけれど、果たしてこれが続くかは分からない。
続かなくてもいいか。
でもあまり毎日こうして細かく記載してゆくと、記載するクセが付けばますます書いてしまうだけで、時間を取られるだけなんじゃないかという気もする。いくら書いても文章が上手になったり本の読み方が鋭くなったりもしないので、まあ無駄な時間かなとは思う。
2週間にいっぺんくらいニュースレターの形で何かを届けたいなと思ったりもした3月だった(清香さんや、他にもレターを受け取る体験がやはり良いものなので)けれど、はじめてはやめを繰り返したくもないのでしばらくは様子見。
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『ビルバオ…』の続き。
著者がニューヨークへの飛行機の中で、84年前に同じ道を船で辿ったひとの日記を読む、という記述があった。
ここに私が感じたロマンは、この先の時代には起こり得ないんだろう。
日記帳が失くなればもちろんその日記はその先誰にも読めないけれど、日記帳が失われるということそれ自体にすらロマンがある。でもたとえばはてなサービスが終了したから10年間書いた日記が消えた、というのはロマンがあるとはいえない。携帯を盗まれたから家族との思い出の写真が消えた、とか。色気のない時代だ。