2025-03-18 『文化の脱走兵』読了、痛快な悪口、『水中の哲学者たち』読み始め
一度読み切ったが、もう一度感触をたどり直したくて最初から聴いてみている。
2回目にして、この文章に感じていた清々しさや明瞭さといった明るい雰囲気はどうやら読み手の声の雰囲気に影響されていたところもあると気づく。もちろん私が感じていたのは作家自身が世界をどちらかといえば肯定的に、あたたかいものとして、自身もあたたかく受け取る姿勢なのだけれど、でもところどころ、もしこれを文字だけで読んでいたら(つまり自分の頭の中の声で読んでいたとしたら)、ここまで明るく澄んだものとして受け取っただろうか、と考えたのだった。
これは何も「読み手によっては内容の解釈が変わってしまう」ことを批判したいわけではなくて(それはいつだって、どんなことにだって付いてくることなのだから)「悲しいシーンは悲しく読む」「楽しいシーンは楽しく読む」というようなクリシェに囚われない目線でものごとを見たいと意識していることに関係がある。私はどちらかというと感情のようなものに判断力を流されがちで、それを削ぎ落としたところでものを見たいし判断したいと思っているので、この読み手がずっとニュートラルに(明るい方向にちょっと針が傾いてはいるが)読んでいることをどちらかといえば良いなと思ったのだった。
一度読んだだけでは気づけなかったことなので、二度読んでみてよかったな。
日本人だからという理由で、私もその人もあまり良く分かっていない日本の文化について演じて欲しいと頼まれることがたまにある。お能のようなことをして欲しいとか、和装で踊ってほしいとか(日本舞踊は人前で踊れるような腕前はない)、習字を書きながら演じてほしいとか。
私がその分野の専門家であれば手を尽くしたいけれど、真似ごとみたいなことをしてその分野への侮辱をしたくない。それに真似ごと程度で良いと思っている作家に敬意を抱くのはむずかしく(文化に携わっているにもかかわらず他者の文化を大事にすることを忘れている、と思うとつい腹がたってしまう)、その人の作品に出演することにはどうしても気が進まなくなる。そういうことを言っているから出番が減るのは分かっているのだけれど、それは私には大事なことなのだった。
できない理由を説明したのに「ここは学問をぶるところじゃない、それっぽく見えるシーンが欲しいんだ」と言われて「💢」となったわたし。最終的には門を立てずに断ることができたけど、やれやれまたか…とちょっと暗い気持ちになったのだった。もっとこう軽いノリのイベンターにこういうことを言われたとしてもこんな気持にはならない。芸術家を自称している人がこういう態度だから悲しくなるのだった。
(でもこういうことを書きながら、『文化の脱走兵』を書かれた奈倉有里さんの世界との接し方を思い出して自分を反省する。いつの間にか私はひどくひねくれて塞ぎ込んだ人間になってしまった。)
でも昨日は、そのやりとりを見ていたフランス人の同僚が相手をひっそりののしっていて、すっと清楚なたたずまいの彼女からそんなひどい悪口が飛び出たことが可笑しすぎて、もやもやした気持ちは吹き飛んだのだった。良いののしり言葉だと思ったのでメモしておく。
「il a l’esprit colonial le vieux」 #良い悪口 ←なにこのタグ😂 こういう風に、近年、自分が大事にしていることを侵された時にいったんそれを冷静に見て、切り分けて、怒るなり自分を責めないなりすることが前よりもはっきりできるようになってきたと思う(こんなことはもっと大人の入口でできるようになるべきことだったかもしれないけれど…)。
そういうことに対するタグが欲しい。
なんだろ。
「怒ってもいい」とかかな。「切り分けて対処」とかじゃなんだか分かりづらくなりそう。
以前は「何に怒るのか」というタグがあったけど「私の偏りポイント」とちょっとまるくしてしまったのだよな。怒るということは自分の偏りにも起因するだろうと思って…うーん。
「怒りを見逃さない」とかかな。「引っ掛かりに気づく」とか?「怒りトリガー」、「逆なでポイント」とかかな。「逆鱗」じゃ大げさだし…。ただ個人的に怒っているというよりは、世界にそうあってほしいと感じている大事なものを侵すことだと感じるから怒っている、というのが込められたらいいんだけどな。
…まあいいや。とりあえず「安請け合いしない」というタグがあったのでそれをつけておこう。
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『文化の脱走兵』の中にとあるオンラインゲームで集まった色んな国の人が、自分のところに仲間を招待すると仮定したごっこ遊びをするといった話が出てくる。そこにはロシア在住の人もいればウクライナ在住の人も、思うように自国から外に出ることができない状況にいる人も。でもその中で、遠くに住む誰かを知り、自分の持っているなにかを分けて交流する。 インターネットでできたらいいなと思うのはまさにこういうことなんじゃないかな。Twitterなんかも、こういうことができるんじゃないかと夢見た気がする。そして以前作っていたアパートメントでも。
イーロン・マスクがTwitterをよりひどい場所にしたことは確かだけれど、それはイーロン・マスク以前にも始まっていたことで、私たちはどうしてせっかく作り上げた夢を踏み荒らしてしまうんだろう。
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そういえば、こちらに私も載せていただいていて嬉しくびっくりした。
私の場合生活の記録というよりはふと書き留めたいことだけを書いているのでどちらかといえばひっそりとしたTwitterみたいなものだけれど、ああ、でもTwitterだってログか。
書かれた内容が「やったこと」ではなく「思ったこと」である、ということがその分かれ目ではなくて、定期的にはそれが起こらないというところが分かれ目なんだな。(夕ご飯の記録は毎日書かれるものだけれど、私は夕ご飯についてなにか思った時にしか書かないから)
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以前から読みたかった本なのでaudibleで読めて嬉しい。
「ぜんぜんわからない」の章、体を動かしながら読んでいたのだけれど(頭を使わなくてもいいような、感覚に潜ってゆく稽古の時には耳が空いている)、「永井さんは哲学に救われたのではないか」という問いのところで、私も踊ることに救われたというような表現をしていたことがあったなということを思い出した。私の場合、明らかに踊りを始めた途端に解決した身の内の現象があったのである意味では救われたという言葉も大げさではないのかもしれないけれど、でもゆらゆらと体を脱力したり感覚を細かく分けて潜ってゆきながら、これはどちらかといえば親友とか杖とかに似ているんじゃないかという気がする。自分に何かをもたらし、気づかせてくれて、なんとなくそばで転ばないように見ていてくれ、一緒にまた別の発見へと向かわせてくれる。ときにはこんな穏やかな表現では済まなくて、取っ組み合いをすることもあるかも。
この著者にとって哲学が、私にとっては踊ることが、それに当たるのかもしれない。
どんな人にでもそういうものはあるのだろうな。
長く、深く一緒にいるからこそそれを鏡として自分や世界を見る、寄り添ってゆくものが。
ストレッチをしながらそのことを考えたせいだと思うけれど、私がストレッチ配信をしているのは、一生つきあってゆかねばならず、残念ながら時々はガタのくるこの体を、ただ思い通りにならない未知なものにしておくのはもったいないような気がしているからなんだと思う。もちろんどんなに勉強してもどんなに鍛えても、いつも元気で新品というわけにはどうしたっていかないわけだけど、でも友達と同じように色々話し合いながら一緒に年を取るのはある意味では楽しいことだし、不調の前兆に気づいて前もって声をかけてあげたりするとおおごとになりづらいかもしれない。
世の中には多くのストレッチやトレーニングの指南が溢れているけれど、友だちとうまくやる方法が人によって一様でないように、自分の体を知ることでどの指南を選べば良いかが分かってくる。
自分の体と一番長い付き合いがあるのは自分で、これからも長い時間一緒にいることを考えたらそれは知るための時間がたくさんあるということでもある。しかも、その探求は尽きないものになる。
自分の処方箋を作るためのヒントになればいいなと思って、色んなことを毎週投げかけてみている。
…と、どうして私は本の感想がまともに書けないんだろう。脱線どころか、レールを別のところにどんどん継ぎ足して帰ってこない。
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体と向き合うことを、私は友だち=自分と対等のものだと考えているから、体に関わることをあまり単純なスピリチュアルとして理解することや「癒やし」のような名前で呼ぶのに抵抗を覚えるのかもしれない。
ただ単純に与えてもらえるもの、自然にどんどん湧き出てくるものではなくて、そこには対等のやりとりがある。