2025-03-13 今日のメモ
風で揺れる枝を見ていたら枝の色がほどけて、葉の色まで明るくなったので驚いて視野を広げたら、陽が差し込んできていたのだった。
そういえば昨日はクロウタドリの声を今年始めて(家から)聞いた。だいぶ遠かったけれどそれでも、今年はあまり声を聞かないので心配になっていたからほっとする。うちの庭の木にせっせと通っているクロウタドリはいっこうに鳴く様子がない。もう家族がいるのだとしたらここに通う意味も分かるし、鳴かない意味も分かる。 春だ。
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極限状態にあって自分が自分として成したいことにかえってくる。
生きるなかで本当に求めているもののために積み重ねられたら幸せだと思う。でもだいたいはそうはできない。生活や人間関係や多くは自分自身がよそ見をしてしまう、か気づくことができないまま年齢を重ねて、そのことを忘れてしまうか思い出してももう体か心かが追いつかないということになる。
収容所に入れられるなんて酷いことだし決してあってはならないことだけれど、極端な状況におかれてはじめてすべての塵が吹き払われて奥底まで覗くことができることがある、というのは、なんとも皮肉なものだなと思う。
(でも絶対にこんなことほんとうは誰ひとりにも経験してほしくない)
一昨年西部戦線跡(ヴェルダンを訪れたのだけれど、そのあたりから第一次大戦と第二次大戦の間あたりのことを書かれたものに触れる機会が増えた。 -
極限状態、というのは大げさだけれど、稽古とか創作はどこかそれに似た部分がある、かもしれない(収容所と並べて話すのはどうかと思うのだけれど)
自分をそこに放り込み、きちんと手綱を取りながら必要なものを手にして、また自分の意志で戻って来る。いつのまにかぎりぎりのラインが細く鮮明になって、次に出かけるときにはさらなる淵にまで行ける。
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