2025-03-01 アンリ・ルソーの月、体に流れるふたつの時間
西の空にとても細い月が出ていた。アンリ・ルソーみたいだねという話をした。
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読んだもののノートをとらずにいた本があって、そのことがここ最近ずっと頭の隅にあった。今日は少しだけ時間を割くことができた。長い本だったからまだほんのさわりだけだけど。あまり時間をかけると息切れして離れてしまうので細かくやりすぎないようにしないと。
単純だけれど忘れてはいけないことがそこには書かれていて、たぶんそれはこれからの生き方に響いてくるものごとのひとつになる気がする。ラスコーの壁画のことを思い出したのは、そういう理由なんだろう。
そういえば今日はひとと社会生活のなかの体と神様に向けての体についての話をした。習慣が体をつくり、体もまた生活を営むための心理に波をかえす。社会や環境は短い時間で変わる可能性がある。でもいっぽうでそれでは切り抜ききれない肉体につながる感覚というのはあって、それはもしかしたら個人だけのものではないかもしれない。
「普遍」という言葉はそれが、自分が生きている時代だけの範囲を意識する場合と、この体をもった生き物としての個を超えた範囲を意識する場合では、示すものが全然違ってくる。
…と自分だけがわかるようにメモをしたけれど、自分でさえあとから読み直して理解できるかどうか。まるで怪しい思想みたいだし。
#水面下に泳がせておきたいこと
2023年にラスコーを見に行ったときのことがどこかに書かれているはずだと思って探したら、驚くべきことにどこにもなかった。あの感覚を忘れてはいけないと強く思ったので何かしら書き留めていると思っていたのに。大事なことこそ書けないのは知っているけれど、だからといって何も書かないなんて。どうして私は一番大事なことを一番後回しにするのか。
(ほかのブログを検索したらかろうじてこれだけが出てきた→https://sizu.me/amayadori/posts/5mu7rvw2uohs) (…ってリンクしたけれど別に大事なことには触れられていない)
しかし、2年前の日記ですらもう自分が書いたものとは思えない。
#03-01