2025-02-17 『陋巷に在り』読了、何ひとつとして使い回せない
『陋巷に在り』13巻もある長編だったけれど続きが気になって仕方ない!と読み続けていたら終わってしまった。もうこの人たちの人生を追うことはできないんだと思うと淋しい。孔子や顔回のことは他の本でも辿れるけど(この本にはなかった13年の放浪の旅のこととかいつか読みたいな)それはもう私が知っている子淵さん(顔回のこと)じゃないもんね。 私にとって深く関心のあることがらがたくさん出てきた。もしかして自分がこのさき何を選ぶのかを決めるうえで大事になりそうなことがたくさん。…考えてみたらそれはすごいことかもしれない。遠からず時間をとって反芻し、深めたい。
次は何を読もうかな。中国地方にもまだ興味は残っているんだけど、それとはまた別に。
中途半端になっている本も何冊かあるんだけど、いま心が向かったものを読むのが良さそうだから『巨匠とマルガリータ』にしようかな?
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途中に作品名が出てくるとつい動画を見始めてしまうのでなかなか読み進まない。
自分が好きだと思う作品と、隙ひとつないのに良いと思えない作品との間になにがあるんだろうと考える。
畏れのない作品には心を惹かれないのかもしれない。
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友人とのクリエイションについて自分の思うところを少しだけ書き始めてみた。
書類上はいくらでもキャッチーでもいいんだけど、やっぱり胸の内に少しでも違和感があるとまったく進まないから、本音のところは誤魔化さないで、素直に磨いておきたい。
ひとりで作るわけじゃないから譲り合う部分は大きいだろうけれど、前段階としてせめて自分の風呂敷をしっかり広げて迷いのないようにしておく。ここ数日でその作業に取り掛かれただけで良しとする。
頭だけで固めたことなんて動いてみたら全然違うことになった、というようなことは往々にしてある(というかそういうふうにしかなり得ない)。頭だけで考えた書類をまず先に出さないといけないクリエイションなんて、実際出来上がった作品との乖離があっても仕方がない。
しかもそれをいろんな場所で、いろんな対象に見せないといけないとなると…!
舞台はその場の、なにかに向かって開かれているもので、あちこち持ち回りして成り立つものじゃない、と私は思うけれどな。お祭りと同じだ。だってそこにはまた別の神様がいるでしょ。
その場によって、見てくれる人によって、演者や作品だってもういちど生まれなおさないといけない。
っていうかもう2月半分すぎたのか…まだ8日くらいかと思ってた