2025-02-10 傷つける行為、ニュースレター、フィクション/ノンフィクション
ひとりで無為な時間を過ごすことはさほどでもないけれど、SNSで無為な時間を過ごすのは自分を傷つける行為なのかもしれない。一息つくつもりでその実ひどく自分を損なっている。乱暴な言葉や意地の悪い動画、意味もなく人をびっくりさせるようなしかけ、猜疑心や後ろ暗い心をかき立てるような話題、その速さもこころをささくれ立たせる。それに触れて流されるのは楽だし、どこかを満たしてくれもする。何かをしているつもり、言っているつもり、得ているつもりにもなれる。
だけどそんなふうに近道をして得られるものなんてほんとうは何もない。近道をしているつもりでそれはからっぽである、もしくは自分が近道をするための対価はほかのいつかの機会に、または自分ではないどこか/誰かが払っている。学びも、楽しいことも、癒やしも、それ相応の対価/犠牲が要る。どのひともほんとうはそれをしっている。しっているのにしらないふりができる、だからSNSを眺めるのは楽しいのだ。
お互いに毎日ほんの少しずつ削り合って、世界はずいぶんと薄っぺらに、軽くなってしまった。
でもその削りかすは自分の目にはみえないところに追いやられ、埋め、腐敗し、重たくし、風も通らない。
ものごとが便利になっても人はいっこうに前に進まないのはどうしてだろうと子どもの頃は不思議だったけれど、今はよくわかる。
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年のはじめにフェリックス清香さんのニュースレターが久しぶりに届いて、自分としても1月の気持ちが改まった頃に清香さんの近況が聞けたことが嬉しく読み進んでいたら、ゼーバルトの『移民たち』のことを通じて私に言及してくださっていてわあとまた嬉しかった。すぐにお返事がしたいような気持ちになったのだけれど今になってしまった。
清香さんのニュースレター(会員登録は無料です)
お手紙みたいに日記が送られてくる体験はやはり嬉しいものだから、今年は私もニュースレターを再開したい気がしてもいる。…が、私が書いていることはこんな風に誰かの気持ちに良い風を通せるような感じではなくていつも、文句だったり、気難しかったり、どこかにふわふわ飛んでいっているようなものだったり、要するにすごくひとりよがりなのでわざわざ送られてくるというかたちには向かないだろうとも思う。
よそ向きの顔で書くことも昔ならできたのかもしれないけど、なんだか年々それができなくなっている。この十数年で自分が変化したということもあるだろうし、いまはその過渡期で余裕がないのかもしれないし、自分に正直でいることだけが何かへの礼儀だとかたくなに思い込んでいるだけなのかもしれない。
でも2023年がパンデミック後の世界に胸を塞がれていた年だとしたら2024年は自分に集中しようとできた年だったかもしれない。2020年からずっと閉じこもってきたことにそろそろ、というかだいぶ嫌気もさしてきているし、2025年はもうちょっと世界に微笑み返してもいいかもしれない。
いいかもしれない、なんて偉そうだな。微笑みを受け取ってくれる先が残っているかどうかもわからないのに。
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そうそう、清香さんのニュースレターに書いてある「あれ」、『移民たち』を読んだ日本育ちの多くの人が気づく「あれ」だけど、私もあのページでぎいっと急ブレーキがかかってしまって、ここまで私が読んできたものは一体なんだったんだ?写真たちの出どころは一体?そもそもこの話はどこまでがフィクションなんだろうか?と、その先を純粋な集中のうちには読めなくなってしまった。 そもそもフィクションであるかノンフィクションであるかなんて、どこまで読者である自分に関係があるんだろう。いや、それを知っているかいないかは大きな違いだろう、そこからしか始まらない/進めない道のりもある。とはいえ純粋に読むとは何か…とか、だいたい完全なノンフィクションなんてありえないのだし…などという議論が頭のなかで大きな声で鳴り響いて、それはいまでも消え去ってはいない。
私は物知らずだからあの写真を見るまですべての写真がフィクションで繋げられているかもしれないなんて思いもしなかった。いや、少しは疑っていたけれど、あんなわかりやすいかたちでネタが割れることになるとは思わなかった、という方が正確なところ。どこまでわかって良かったんだろうか。どこまでが作者の意図で、どこまではそうではないんだろうか。そんなことを考えたら物語とか文章の美しさに目が滑るようになってしまった。
ひとによっては最初の数枚を見ただけでこれは作者とは無関係な写真である=フィクションであると気づくのかもしれない。ゼーバルトがどういう作家であるかを知っていたらはなから作者と物語との距離を了解しながら読むのかもしれない。もしくは、最後まで写真は作者のもの、または縁者のものなのだと思い込んだまま読了するのかもしれない。
ともあれ最初のショックから醒めて「そういうことなんだな」と思いながら読むことにした。そんな風に読んでみたけど、もちろん素晴らしかった。
手元にまだ2冊くらいゼーバルトがあるので、それを読めば少しはこの作家のことを知ることができるだろうか。
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わたしにはこんなすがすがしく明るい眼差しを送ることはできないけれど(これは文章の内容や、そこにある状況がすがすがしかったり明るい、という話ではなくて、書き手が他者にどう接したいか、接しようとしているか、接してきたかということが表れているんだと思う)、でも自分なりに正直なところで書いてみたり、書いてみなかったりしようと思う。引きこもったり、時々は届けたいと思ってみたりしながら。
その時々でまた書式や場所を変えたくなるかもしれないけれど、倉下さんとTak.さんのラジオを聞いていたら考える場、耕す場所が変わってゆくことはただの気まぐれではなく、必要に応じてのことなのだということを言っていらしたし。