2025-02-02 映像と実体と時間
読書会ともいえないような読書会の中で、参加下さった方の読んでいる本に興味を覚えて検索してみたり、ユベルマンを読んでいる方が共有下さったメモからベケットの「人べらし役」について調べてみたり、「樹皮」と別の方が読んでいる皮膚のことがふと関連して感じられたり…一人の読書ではかなわない膨らみがあって楽しかった。
『📖『Bon qu'à ça|Ce que la vie signifie pour moi』Jiri Kylian(SONNEUR)』を読んでいる。今日読んだのはサミュエル・ベケットの戯曲『Pas moi』を見た経験が、東日本大震災に関連した作品『East Shadow』に繋がったという箇所。舞台上に演者と、演者が含まれる映像が同時に流れることでつくられる時間感覚について考え込んでしまった(だから読書はあまり進まず)。
映像に映っている人は情報がなければそれがいつ撮られたものなのかわからない。何十年も前に撮られたものならもうこのひとは年老いている、または亡くなっていることだってあり得る。それに対して舞台上に生身で出てきた人間はいつだって今その状態で生きている人なのだった。いや、当たり前だ。当たり前のことなのだけれど、映像と生身の人間が同じ舞台上に現れることでそのことがことさらに意識されるというのはたしかにあって、久しぶりにそのことに空気を含ませるようなきっかけとなった。
キリアン氏が映像の方を「死」や「過去」と捉えているのだとしたら、それを「未来」として見せることは可能なんだろうか。映像は必ず過去(ライブだとしても少なくとも現在、厳密に言えば一瞬過去と言えるかもしれない)に属するものだけれど、そこから外れたものにするとしたら。(例えばね。そういうトリッキーなことを試みたいというわけではなくて)
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#02-02