2025-01-01 呼吸に集中する
パリを離れて違う生き方にシフトしなさいとSがアドバイスされている傍で私は自分のことをかえりみていた。
この10年、仕事のこともそうだし、できるようになったことやいまだにできなくて密かに、でも強く恥じるような気持ちでいること、コロナ以降特にだけどでも考えたらもっと前から人に会いしぶるようになったそのいくつかの要因、あれはいつのことかな、2012年くらいまで?進んで人との縁を作ろうとしたし良い面だけを見ようとしていた、それなのにあることを境に人に失望して、信じたり期待したりしなくなった。常に批判的な目でものを見て、誰にも胸の内を明かさなくてもかまわないと思うようになった。少し元気になった頃に再び打撃を受け、震える体に鞭打って大事なものを守り、そのためにまず味方を説得し、戦わなければならず、私が守ってきたことの重さや決意や理想は誰にも理解されないと知った。言葉なんて空虚なものだし、いくらだって誤魔化せるし裏切る、損をしてまで責任を負うひとなどどこにもおらず、光の当たった部分だけを語るのを見ながら私は、ただ深く沈黙するしかなかった。
決して何も言うまいと思った。
すべて抱えて去るには重すぎる荷物だけど、私ならそれができるしすべきだと思った。誰ひとりこの重荷を知らないなら、誰も傷つかなくて好都合だとさえ。
でもしばらくしたらさらにひどいことになった。呆れ果て、無力を覚え、軽蔑もし、そのことが悲しくて…そしてもう私はそのことに触れられない。責任を負うことすらできない。
もう済んだことだ。
触れられない、触れるべきでないことなら考えても仕方がない。ほかのことに目を向けてそこからは自分をきちんともぎ離すことができたと思った。思っていたけど、でもこういうことって長くかかるんだなあ。何年も経ってから自分がどれだけ深く迷い込んでいたかに気づいたりする。
無邪気に人を好きになっていた自分が懐かしい。
本当は共有したいことがあっても、それを知らせて一体何になるのか、私はこの人のことをほんとうには信じてもいなければ好きだと思うことにもストップをかけて付き合っている、それなのに美しかったものや楽しかったことを話して、束の間喜んでもらうことが一体なんなの?一緒に笑ったり、だって楽しかったから知って欲しいんだけど、ほらこんなもの見たよって見せたいんだけど、はち切れそうだけど、胸の中で呟くだけで終えてしまう。わたしはただにこにこしながらみんなの会話を聞いて、でも心の皮膚は諦めや失望やもうそういうことを感じたくない恐れで冷めていて、だけど胸のもっと奥は掻き回されていつのまにか泣き出しそうになる。
書かなくなったのは伝えたかったその先を拒絶しているからだ。
少しずつコネクションを外していって、少しずつ静かに離れて、そうしているうちに自分からも遠くなった。人間の世界を忌み嫌うことは自分をも忌み嫌うことだから。
森を歩いて、鳥さえほとんどいない静かに晴れた森を歩いて、体に風が通った。
そうか、私はしんどかったんだな。恨みがましい気持ちも捨てられなかった。全部に裏切られた気持ちだった。それをただ認めよう。事実はどうあれ、少なくとも私はそう感じた、それも事実だ、私にとっての事実と、もしかしたら他にもいくつかある"事実"をまぜずにただそこにあったらしきことをそれと認めておこう。因果を見たり良し悪しを断定するのはやめて、それが悪い感情でも良い感情でもダメなものとせず、個人に遺恨を残したり(遺恨があるとしたらそのできごと自体に預けてしまおう)私が未熟だったからなどと下手なエクスキューズはいれず、ただ、そこに置いておこう。
一歩ずつ歩けば森の深部に近づくし、一歩ずつ歩かなければ家に帰ることもできないのと同じように、ただひとしく。
なりふりなんて構わずに、迷惑もかけまくりで自分の思いを通したら良かったのかなと時々考える。そうするくらいの権利はあっただろうし、今となってはそれが本当に責任をとるということだったとも思う。それを選択することもできなかったぜんぶが悲しくて情けなくて、自分をゆるすことが長いことできなかったんだな。
今年は遠回りをしない。