2024-12-22 これは私の観察日記ではなくてあなたの観察日記かもしれない
https://scrapbox.io/files/67681e83de998083d426ce6d.JPG
記録したり思考したりするための道具がどうもすっきりしないので、今使っているものをノートに洗い出し、それぞれの良さや使いづらさを書き出し、検証してみた。
私が何を欲し、または何を重要視していないかはすぐに見えてくるけど、そこに「外部から見てもらうには」という要素を入れると途端に複雑になる。つまり私が欲しているものと、外部に見てもらうために重要であるものが簡単には擦り合わない(と私は考えている)ということなんだろう。
それならば「私の場所」と「見てもらう場所」を分ければいい。シンプルだ。だけどそういう時間を取るのは何か違う気がする。単純に面倒だし、同じ文章が別の場所に存在するのが嫌だ(そういう意味ではTwitterとBlueskyに同じ投稿をするのも本当は嫌)というのもあるけれど、もっと別の、私のなかの「日記を書いてそれをわざわざ公開しているのはどういうことか」に触れる部分に何か理由がある感じ…。
私の日記?書いているもの?はひとつひとつが個として成立するタイプの記事(なにかについて紹介していたり、調べていたり、論考していたり、など)ではない。今日はここからニョキッと葉っぱが出ていて、今日はここに陽がさしていて、今日は時間がゆっくり流れている、…それを観察する感じに近いのかもしれない。日々を観察している私を、読みに来る人が観察するというような。
とすると観察される私のほうがそれをせっせとコピペしてどこかに移動して整えるなんて、それはなんだか変な行為だ。愚直に、好奇心のまま、研究として一番良さそうな書式でどこかに書く。私が書いている内容に見合う行動はそんなようなものである気がする。
でも一方で、私の中には「手渡したい」という欲求もある。どうしてもあるんだよなー…。そうするとやっぱり見られるための体裁を整えたほうがいいかもしれないな…と定期的に悩んでしまって、こんなふうに無駄な時間を費やすのだった。
…いやいや、本当にどうでも良い。少し時間が空いたからと何をしているんだわたしは。
仕事して、合間に読む日にしなければ。(もう15時だけど)