2024-11-20 マジックミラーみたいに、片方には自分しか見えていない
今日はとても寒い。明日はもっと寒いらしい。
(あるラジオを聴いて)ひとりの出演者のIQが低いのではという評価をしているのを聞いた。
そのやりとり自体は彼らの中での信頼関係があってのことだから何も不快ではないんだけど、私はその人の、自分が感じた感覚をつかえたり寄り道をしたりしながらも丁寧に言葉にしようとする姿勢をとても好ましく見ている。確かに時間はかかっていてまどろっこしいかもしれないし(そのラジオで語られる類の)知識を多く持ってはいないのかもしれないけど、その人がそこに話を脱線させた理由や、その言葉を選ばせた背景にちゃんとその人の人物が滲んでいる。周りだけでなく本人もそうは評価していないみたいだけれど、察しも良いし、メタ的な視点も持てている。何かと何かを引き比べて簡単に優劣をつけたりもしない。判断すべきことと、判断を保留にしておくべきことと、そもそも判断をすべきでないことを感じ取って自分の態度としているようなところもある。これを知性と呼ばずになんと呼ぶのか、と思う。
かたや話し口が流暢で素早く例を出したり話題を転がしてゆける共演者はどこかでその人のことを自分と比較して見ようとしているのがわかる。話が始まるとすぐに「きっとこういう話だろう」と予想を立てて自分の反応を決めているから、話を深く聞いていないことがある。話し手が実は細かいことを掬い取ってなげかけているんだということをキャッチせぬまま、話の分類や次の展開の方に頭がいっている(これはラジオを進めるための役割を担っているから仕方がない)。でもそうやって準備が早いので反応も速い。別の話へスムーズに展開する。一般的にはこちらのほうが賢く仕事もできるとされ、頼られるだろう。とはいえ私にとってそのアクセスの良さは大雑把さにも繋がることなので、話を聞きながら、そういう簡略化をすれば細かいことは無視できるだろうけれども…それとそれを同じものとしてまとめちゃうんだ?というストレスがなくはない。
カオスの海を漂いながらすべてを切り捨てるでもなく、またすべてを含みっぱなしにするでもなく行きつ戻りつもやの中を進む前者と、要点を瞬時に切り取り言語化しクリアに言い切る後者、実際はやり方が違うだけ、知性の形が違うだけなのになあと思う。
のんびりしていたって試行錯誤が多くたってその個性のままでいいんだよという話ではなくて、実は前者のような態度でものごとと接し続けられる人はそんなに多くない、でも実はその方法でしか辿り着けないことがあって、それは今失われていきつつあるものと関係がある、と思うのだった。
まあでも共演者が表面では彼を(ふざけて)低く評価しつつも好いているらしいのは、その豊かさや複雑さに気づいているからなのかもしれない。
一緒にクリエイションをしているダンサーは顔が本当に小さい。小さいだけでなく頭蓋骨全体が鼻と後頭部を頂点にして前後に尖っている。私の頭蓋骨はどちらかというと前側が扁平でハチが張っているので鏡で見比べると自分の顔の大きさにびっくりすることがある。日本にいたら顔は小さい方だと思うんだけど西洋の人の骨格とは違うもんだなあと思う。
昨日は彼女に「あなたのたくさんものを考えている大きな頭素敵!」とぎゅっとハグをされたのでうふふとなった。日本では頭が大きいって褒め言葉には受け取られないけど、こちらでは頭が小さいねなんて言うと「頭が足りない」という意味になりかねない。(だから日本の人は注意してほしい。わー!顔小さい!目が大きい!足が長い!などと言っても怪訝な顔をされるだけなので)
確かに頭でかいなあ…願わくばもうちょっとこのお盆みたいに広い印象が軽減したらいいのに…と思うのに、彼女からするとそれが印象的で良いのだそうだ。
ならばそれでもいいか。