2024-06-13
熱が下がったと思ったら咳がひどい。お呼ばれは諦めることに。この頃当日にキャンセルしなければいけないことが続いて申し訳ない気持ち…。
私がなにかをどこかに置いたとして、それを受け取った人に何を望むかといえば、共感とか仲間がいるといったような安心感では全然ないな。そのひとがそのひと独りで何かを味わい、ひとりきりでその先もそのひととして生きてゆく、そのことに関わることができるのなら、やった甲斐があったと思いはするかもしれない。
私はひとと手を繋いでやってゆくつもりがないわけじゃない。たまに隣を歩いたり一緒のものを見たり寄りかかったりはしたいけど、それは自分の存在が自分の足元に確かにある人とだけで、手を離したらとたんにぼやけてしまうようなことを育てるのは嫌なだけだ。
悪意のない行いが為す害悪を見過ごしてはいけないのは、それが個人の資質や意図を越えたところに原因がある可能性があり、社会がすべきは個人を糾弾することではなくて個人を超えた何がそれを引き起こしているかを考えることかなと思う。「こんなことも知らないのか」と必要以上に強く責める心理の背景にはそれが個人を超えた大ごとであるという認識があるからなので、だからこそ個人が受け取れるより大きな責めを与えてしまう態度には慎重になるのがいい気がする。
Twitterという場所は個人としての意見や気持ちを私的に置いておける場所であるのに、同時に、一転して社会の声としての役割をその気もないのに担わされる可能性がある、よく考えたら怖いことだ。個人としての感情と、社会の一員としての在り方は同じとは限らないのに、それを見分けずにつぶやいてしまうし、それを見分けずに受け取ってしまうしで、やはり短い言葉でのやりとりには相当に慎重になったほうがいいな、と思う。
(こういうことを書くと起きたことを擁護しているとか、被害を被る人や物事のことを軽視していると思われそうだけど、その個人は反省すべきだし改善もされるべき、しかしそれをとりまく私たちが考えることやとるべき態度は?という話だけをしている。)