2023-09-18 ミステリーを読んでいた頃
京極夏彦の分厚い本を読んでいたのとちょうど並行して島田荘司の御手洗シリーズを読んでおり、「御手洗、この先の石岡くんをどうしてくれるんだ!」という気持ちと「関口をどうしてくれるんだ」という気持ちが近かった気がして、どっちがどっちだったかよく思い出せない。 その頃森博嗣も読んでいた。へっくんや萌ちゃんはあのあとどうなったんだろう?完結したのかな?電子版で大人買いしちゃうことも可能なんだな、と考える。読みたい、読みたいけど今じゃない…いや、じゃあいつなんだ?という葛藤を呼び起こす『鵼の碑』の発売。 思考をその先にまで遊ばせたい時には手書きのノートを使う。後から見返して楽しいようにと工夫した時期もあったけれど、私はあとから何かを見返したりすることはないのだった。いつか見返すだろう、と考えながら人生の半分(多分)を過ぎてしまったのできっと残りの半生でも見返すことなどない(断言)。そういうこともあって、浮かんだことを、ノートの空間に書きつける。ペンで紙に刻むみたいに。「書きつける」という言葉がぴったりだと思う。書く、と書きつける、との違いとは。書きつける、の方が文字がしっかりと紙と噛み、体のほうにも食い込むような気がする。
頭に浮かんだことをそこに書きつけることで、靄がかって見えなかった少し先に歩いてゆける。その瞬間、そういう風に手を動かしていること、それを目で追って浮かんでくることを捕まえてまた言葉にしてみること、その現在の体の感じにだけ、興味があるのかもしれない。
写真もそうだった。撮る瞬間だけに興味がある。現像していないフィルムが今でもたくさん手元にある。
絵を描いてみたいし、刺繍にも興味がある。彫刻や陶芸もしてみたい。でも、何かを形にしたいわけじゃない。描きたいもの、縫いたいもの、掘りたいものは別にない。物体ができあがってしまったらただもてあますだけだろう。ただその作業に体を打ち込んでみたい。そういう欲求はすごくある。
だからきっと振付よりも即興に惹かれるんだろうと思う。
自分が生み出す瞬間の熱にしか興味を持てなくて、一秒後、指を離れた途端から見えないところに流れ去ってしまう。
それでいて、こつこつと長年ひとつのものを温めるような行為や、愛でられて手垢がついたようなものにも憧れがある。
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外国語をすらすらと飲み込めないことは私にとって苦痛だしじっさい死活問題ではあるけれど、外国語で読むという経験を、これだけいつまでもたどたどしくしかできないことは、私に大きな発見をくれているとも思う。
こんなにひとつの文章を何度も見つめ返すことは母語ではできないし、母語ではもう自分が間違って読んでいることにすら気づけていないかもしれない