2023-04-27 独学、這うような読書
厳しくものを見る目を持たない人のために教師や師匠は必要なのかもしれない。
自分のしていることをまず客観的に見て、判断して、何が不足しているかどうしたら良さを伸ばすことができるか、そういうことを考えて実践するのが練習とか稽古というものだと思うけれど、まず「客観的に見る」ことすらしないひとが大多数だし、見たところでそれを判断することができていない、いわんや改善など、というわけで仕上がりがぬるいだけで筋肉だけがついてゆく、ようなものが溢れてゆく。
そこをある程度他人に任せられるし時間の節約にもなるという点で教師(または教科書)があるのはひとつの道として選択しうるものだとは思うけれど、結局最後に見て判断して変化させるのは自分でしかないわけなので、それまでずっと「自分を見つめる」ということを半分他所に任せてきた人はある時点で自分なりのやり方を会得することをし直さなければ次に進めない段階が必ずやってくる。しかもその時点ではすでにテクニックや経験を持っている。本当ならこれが底上げに役立つはずだし、多くの人にはそう考えられていると思うけれど、ある地点より先に進もうとした時にこれが思いの外障壁になる。
近道だったのか甚だ疑問だ。自分を見つめることだけは外注できない。
言葉というものの弊害に問題は近いかもしれない。
壁の世界のパートの出だしはこんなに印象的だった、ということを久しぶりに思い出した。この金色の毛皮に何度指をうずめ、乾いた骨を辿ったことだろう。
やっとそれぞれの世界のはじまりを(つまり2章分)読み終えた。先は長い。