2023-04-22 発言する夢
夢の中で私は高校の授業を受けている。
授業を受ける中で大きな気付きがあって、手を挙げて発言する。「あまり関係ない話みたいなので悪いんですけど…でも実は深く関係するんじゃないかと思うから発言するんですけどいいですか」と切り出す。
個人が言葉を習得する段階の中には、社会での普遍的な認識や意味合いと接近したり離れたりする段階があるなと思ったのです。
どういうことかというと、赤ちゃんの時は「食べる」とか「ママ」とか「痛い」とか「ブーブー」とか、そもそも限定された意味が使われることの多い言葉から覚えてゆきます。またはその言葉の中でも代表的な意味だけを取り急ぎ覚えます。
でも成長するにつれて、人がある単語に出会う回数や経験は様々で、それによって実はその単語への印象は他人が持っているものとは少しずつ離れてゆく。もちろん共有する部分は持ちつつだけれど、本当に微妙なことを言えば人によって単語ひとつとっても成長に連れて印象は分岐していく。
こういうことを考えたのは私がフランス語を勉強する中で、多く使うけれどうまく意味を固定できない言葉、英語で言えばtakeとかgetみたいな色んな意味が与えられている単語もそうだし、日本語に外来語として何となく入ってきているけれどフランス語として使う時には別の意味であったり、他の意味合いも持つような単語(例えばリザベーションとかエンゲージとか)を、ただ辞書を調べても分からないけれど多くの例文に当たりながらだんだん単語の輪郭がはっきりしていく、という経験を通して思ったことです。
初めは赤ちゃんがするように、その単語が一番使われがちな意味を捉える。そしてだんだん他のニュアンスでも使われていそうだという例に出会って、学習していく。
でも当然、おそらく私がなかなか出会わない使い方があって、ある日突然「そんな使い方があったのか」と驚いたり、または思い込みを訂正させられるようなことがあったり、観察する意味の単語を知って棲み分けを意識したりするような経験もする。
つまり、言葉というものは、曖昧なところからだんだん確定されてゆくという発達を経るのではなくて、とりあえず確定されたものから入ってだんだん個人によって色んな側面を発見されてむしろぼんやりと広がってゆくようなものなのかなということを考えたのです。
私たちは今、さらにSNSのような、ネットがないな生身でいる時代なら到底出会わないであろう多くの人たちに出会ってその言葉に触れている。だからその都度自分はそうは使ってこなかったその言葉の色合いに出会うはずなんです。
でもところが私たちは、自分が築き上げてきたその単語の意味、言葉の意味は成長につれて、社会の共通認識に近づいてきたはずだと勘違いしている。
実は単純な側面を見ていた赤ちゃんの時代に比べて、自分がその単語に付与した意味や印象は自分だけのものになっているのに(もちろん社会、他人と多くは共通する部分を持つものだけれど)、自分の使う単語は、他人が使う単語とまったく同じだと思い込みがち。
本当は本体には通じる同じ意味があるけれど、輪郭は滲んでいて、人によってその滲みの色や範囲は微妙に違うし、別の面を同時に見ているかもしれない。ひとつのサイコロや宝石の他の面を見ているように。
でも言葉は一応「記号」であるから、記号というものの役割である「共通認識」がそこには必ずあるはずで、私の言葉とあなたの言葉が違う意味であるはずはないという思い込みから会話がはじまりがち。
本当は赤ちゃんの頃一緒にスタートしたけれど、今は遠く隔たっているかもしれない部分で話しているかもしれないのに。
インターネットでのコミュニケーションを介して私たちは単語や言葉に対する印象や認識を日々変更を余儀なくされたり、自分にとってはどちらかといえば受け入れ難い意味を付与されている場面をみかけたりすることがある。
そんな風に人と言葉との関係は個人レベルでもいつだって揺らいでいて固定されない。
それなのにコミュニュケーションをする場では言葉は固定された記号であるかのような前提でやりとりされる。もちろんそういう仮定をしないと始まらないのだけれど、お互い持っている単語が同じものだという固定観念が強すぎると、実はもう少し幅のあるものだということが忘れられて、コミュニュケーション自体が瓦解していることに気づけない。
自分が今その言葉のどういう色合いを見ながら話しているかということにも閉じたまま話してしまうかもしれない。
つまり、個人レベルでは赤ちゃんの時には言葉はぼんやりしていたけど成長につれてだんだんクリアになってゆく仮定を経験している。
でも社会レベルでは、単純な認識を共有していたところからそれぞれの人が色んな意味合いを獲得してむしろぼんやりと拡散、拡大している。もちろん意味合いの核は同じだけど、私たちはその意味の外に広がった滲みをも使って対話しているわけだから。
個人はクリアにしていった言葉で話しているという認識から抜けられないけど実は色んな意味合いを獲得していったもの同士がコミュニュケーションを取ろうとしているので、齟齬が生まれる。
…というようなことを発言していた。
面倒な高校生。
でも頭が整理されたかも。
目覚めたばかりの覚書なのであとで整理。
ー
自分が高校の授業中に、長々と発言している夢をみた。
言葉が記号であり伝達の手段であるならばどうして私たちのコミュニケーションはうまくいっていないのか、ということに対して気づきがあって、それをみんなの前で懸命に話すという夢。
どういう発言だったかというと…
言葉を個人レベルで捉えると、赤ちゃんの時にはぼんやり曖昧に理解してしていたものが、成長するにつれて明確になってゆくといったイメージがある。ひとつの言葉は様々に分岐もし、理解の粒度も上がり、自分の感覚にしっかりと刻み込まれたような。
でも社会から個を見れば、赤ちゃんの時にはその語の単純な面を共有するしかなかった、つまり互いの理解が単純だったのに、個々が成長するにつれてそれぞれの体験を通して同じ言葉にもそれぞれの色合いが獲得される。メタ視点から言葉というものの全体を見ると、むしろ人の数だけぼんやりと拡散、拡大している。
もちろん言葉は記号としての役割を失ったわけではないから、意味合いの核は共通しているのだけど、私たちは個々に、共有する意味の外側に広がった滲みを体に染み込ませながら対話している。
個人からしたらこの言葉はこんなにクリアに定義されているのにと思う。だからその言葉で他人と話せば通じるはずだと思う。
でもその実、成長段階でそれぞれに言葉に関する体験によってそこにくっつけたりまとわせたものを使ったもの同士がコミュニュケーションを取ろうとしているので、そこに齟齬が生まれる。
…というような話。
うまく書けない。
話せばもうちょっとつっかえつっかえだけど、いろんな例を出したり付け加えたり取り消したりしながら説明できるんだけどな。
個人は曖昧→クリア、社会はクリア→曖昧、というように、ちょうど逆転するようなイメージで捉えられる!すごく整理された説明ができる気がする!と充実した気持ちになりながら目が覚めたのだった。
夢から覚めて、私は子どものころ実際に、授業中関係のないことを発言していたことを思い出した。もちろん全く関連のないことを言いはしないのだけれど、先生の言葉から思い出したことやみんなと話してみたいことがあったら手を挙げて発言していた気がする。授業中に先生に求められたことや直接的な答え以外を発言する人って私の他にいただろうか。いや、いたとしても私にとっては別に変なことではないため、印象に残っていないだけかもしれない。
多くの先生たちは面白そうに私の話を聞いてくれたから、いま考えたら良い先生にあたったなと思う。
今も、関係ないことを言ってしまうのは変わっていない。誰かの作品(本とか動画とか絵とか)に対しての直接の批評は全然できなくて、代わりにそれに触れた時に自分の中で何が起こったかを共有することのほうに力を入れてしまう。
フランス語に苦労することで、言葉について、その獲得過程について考える機会が増えた。
私が昔みたいに毎日日記を書かなくなった、書けないと思うようになったのは、その過程で今まで自分が言葉に対して持っていた浅はかな幻想が剥がれていったからだろうと思う。