2022-01-01何かが抜けたように
私は元社会主義国からきた一員として、フレームに入らない人々、はぐれるという踊りを考えて、他の人々から暴力を受け、最後に舞台から投げられるというシーンを作った。そしたら、泯さんが私たちのパフォーマンスを見て「最後に立って笑うのよ」と言われた。そうだ、人生で最高のアドバイスを受けた。
舞台に立って演じることを普段はしていない子どもを役者としている。
子どもたちは憤怒や慟哭など、日常ではなかなか見ないほど振り切れた感情を舞台上で見せたので、その圧力にこちらの心臓がわなわなと震えるくらいだった。
激しく針を打ち込まれながらかろうじて最後まで見終えると、最後に子どもたちは日常に戻って輝くような笑顔で舞台挨拶をした。大役を終えてみんなほっとして、それぞれ自分に戻っている姿。そっか、ここまでが作品だったんだなと。
その作品は途中に観客を巻き込むような仕掛けもあった。見る側と見られる側の境界、舞台という「ここは非日常です」という設定のある場所と、それを日常を引きずりながら見ている客席の境を一瞬で取り払うような瞬間。だから殊更にそういう感じがしたんだろう。
ちいさな仕掛けで、状況をひっくり返したりひとの心理を掴むスピード、その嗅覚にびっくりした。また高嶺さんがつくる舞台を見たいけれど、あまり頻繁に舞台をつくる人でもないのかもしれない。
『melody cup』についてはこちらにも
新年があけた。
昨日の夜に、少し言葉を間違って傷つけてしまったことが、取り返しがつかないことにならなくてよかった。表現し切ってもなお傷つけるなら仕方がなかったと思えるけれど、自分の感じていることを掴みかねて間違った言葉を使ってしまった自覚があったので気になっていた。
何をしようと、しまいと、本人がそれで満足なら構わない。でも数年経ったときにやっぱり悔いてほしくない。私のように自分のせいで絶たれてしまうかもしれないわけじゃないのを毎日見ているから。
それに私もその先を見たい。