📖『Le Grand Cahier』Agota Kristof|(『悪童日記』アゴタ・クリストフ)
(まだ下書き)
『悪童日記』を原文(フランス語)で読んで、すらすら読めなかったからこそ日本語で読んだ時には感じられなかった多くの発見があった。 双子はふたりきりで厳しい世界を生き抜くための訓練をするのだけれど、読み書きの勉強のなかで「どんなことも客観的に記述する」という癖をつけようとする。感情や、個人的な見解を含めずにただ、そこにある事実だけを記述するのだ。
私たちはつい、自分の内側を反映させて目の前のものごとを見ようとしてしまう。なにかのバイアスを一切排除して世界を捉えることはできない。けれどもそれを極力廃する努力をし、一歩身を引いてものごとを見る。
アゴタ・クリストフはこの小説を母国語ではないフランス語で書いている。彼女の自伝(『文盲』)の中には彼女が母語と決別せざるを得なかった痛みや、新たに獲得した言葉であるフランス語に対する複雑な葛藤が書かれているが、この『悪童日記』こそまさにこの双子が行ったような、主観を排し事実のみを記述するような文章で書かれている。
世界の形は見るひとによって全然違う。
自分ももちろんそうなんだけど、自分が引きずってきたことを反映させずに世界を判断することはすごく難しい。
ただでさえ世界には複雑な問題がたくさんあるのに、それぞれの人間がそれを自分の側に引っ張っていって語るから、余計に混乱する。
自分の心の波に足元を揺るがされながら、まったく客観的にものごとを見ることは難しい。
その揺れからまったく無関係でいること、主観をすべて取り除いてものを見ることは不可能なのだけれど、せめて私の見ているものにはバイアスがかかっている事実を自覚して、極力色付けせずにものごとを見ようと心がけたら、もう少し議論は前に進むかもしれない。
でもこの『悪童日記』にあるように、そのためには個々に訓練がいる。
昔みたいに生活が今みたいには便利じゃなくて、何をするにも肉体的に大変だったり、不便を工夫しないとやっていけなかったり、考え抜いた上で妥協したり…という経験がなくなった現在で、その訓練をあえてする機会はなかなかやってこないかも。
芸ごととか、勉強とか、仕事とか、もしかしたら何かを突き詰めようとしている人にはそういう機会があるのかもしれないけれど、どうかな。それすら疑わしいかも…と思ってしまう。出来上がったものとか、議論の方向を聞いていると。
最近見た韓国ドラマの主人公が立て続けに自閉症のような症状を持つ人で、それと引き換えに状況をそのまま記憶し、判断することに優れていた。
立場とか感情とかしがらみとかには左右されず、そこにある事実だけから物事を判断する。
もちろん世の中が全部それで動いてしまうことにも問題はあると思うけれど、現代は(とくにネット社会の現在は)あまりにも、自分の感情や自分の都合、自分の弱さや自分の幻想に、現実を歪めがちだ。
歪んだままの現実を念頭に言い合いをしたって、折衷できるわけもない。
「ありのままの自分」のようなものを大切にしようと叫ばれてから等しいし、もちろんそれはそのとおりだと思うのだけれど、「自分」というものの追求の道はそんなに甘くない。自分に都合の悪いことも引き受けないといけないし、痛みも伴う。辛抱も必要。今のままの自分をただ漫然と許して、自分を客観視せずに認めようとする「ありのまま」とはなんなのか。
そういう自分のままではいつまでも自分にかまけていて、社会のなかの自分とはなれないだろう。
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私の文章はまったく無駄だらけで読みづらいので、見習って完結に書く訓練もしてみたい。
自分の中のカオスを、適当につまんで色を塗るようにぺたっと置く、それをなんとなくつなげていく…ような起承転結のない夢のような文章…、ではないものも書けるようになりたい。
私は自分の物語のなかにどっぷり浸かりながら、目もその海の水で曇りながらものを見、聞き、感じ、書いている。
陸に上がってからだを乾かす時間も作らなければ溺れたまま眠ることになる。