📖『悲しみを聴く石』アティーク・ラヒーミー/関口涼子訳(白水社)
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『灰と土』には男性ばかりが登場してイスラム世界での男性の堅い誇りについて書かれていた。今回の主人公は女性で、子どもの頃も大人になってからも人生を自分のものとして選択することのない社会の中で、唯一の庇護者を失う。
答えのないままそれを聴かれ、見つめられ、かといってそれは自分と同じ肉体の続きであるということの不気味さや、それによって追い詰められ、時には自由になる姿が描かれている。
『灰と土』では詰めた息を少しずつ吐き出すように圧力を失わない展開だったけれど、こちらでは円を描くように、緊迫した場面とそれが開放され漂う場面とが行き来する。円を描くように、というのは数珠を繰る行為にも似ているかも。
アティーク・ラヒーミーが描く男性と女性がかくも違うことが興味深い。『灰と土』の女性たちもただ無惨に翻弄される姿だった。この描写の中に作者自身のジェンダーに対する態度がどのくらい含まれているのか、本を最後まで読めば少し見えてくるのだろうか。私はイスラム社会のことをほとんど知らないのでいまのところこうして文学から推し量るしかない。
インタビューとかからも分かるかもしれないな。探してみよう。
作者の無意識化にあるジェンダー格差がここにあらわなっているのではないか、というようなことを疑いながら読んだが、読み終えてみてそうではないと思うようになった。舞台になっている社会に実際ある男性の問題、女性の問題にそれぞれ焦点を当てたに過ぎなかった。
あとがきで作者が、女性の生きづらさはまた男性の生きづらさにつながると話しているのが印象的だった。女性の口を塞ぐ手は同時に男性を縛る。
植物状態になる前には自分から話しかけることも触れることすらできなかった夫は、いまや妻がいなければ眼球を湿らすことも、喉を潤わすこともできない。
夫は生きていても生きていなくても話を聞いてはくれなかった。
もしかしたら聞いているかもしれないけれど答えの返ってこない人に話しかけることと、王様の耳はロバの耳みたいに言葉を投げ捨てることができること、それから自分の胸の内だけで話すこと、その違いはなんだろう。
悲しみを聴く石はかなしみがたまりすぎると割れてしまうけれど、石は話しかけている人の鏡だ。石が割れるときにその人も割れる。答えの返ってこない人に話しかけることも同じだ。その人は鏡であって、そのひとを壊そうとすれば自分が壊れてしまう。