『素晴らしきソリボ』パトリック・シャモワゾー / 関口涼子, パトリック・オノレ訳(河出書房新社)
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ちょうど現実にも(主人公であるソリボと同じく)クレオール語/フランス語の語り部のひとと知り合ったばかり。先日行った語りの会の時にかけられていた「くりぃ!」「くらぁ!」の掛け声もそのままここには書かれている。
語りは文字にされるともう変わってしまう、というソリボの言葉のあたりまで読んで続きにわくわくしているところ。
p43
語ることと書くことは全然違うのだということをソリボがシャモワゾーに言う。「そうだよね」と思ってみるけれど、ほんとうにそれを分かってはいないだろう。書く、ということはその違いがなんなのかを知るようになったひとにしか本当には行えないのかもしれない。わからない。それでも書くことによって、語りがしていることは蓋をされてしまうわけで(目が醒めていては夢がみられないように)、永遠に追いつけないことだけが手に残るんだろうか。
ソリボが言っていることを、私はほんとうには分かっていない。
ソリボに行われる冒涜は西洋世界がかつて、そして今もこういった物語が生きている世界への仕打ちと同じものであると思った。
ソリボは町のお母さんとも呼べる人が死んだ時に温かく美しい方法でそれを送ったのに、自分はフランスの警察によって遊ばれ、冒涜され、腐敗した姿を晒される。
蟻が境界線を作っていたように見える。
肉体はソリボの美しさとは関係がなかった。
「バイアスなくものを見る」みたいなことを私はよく考えるけれど、ソリボの死について証言する人々の言葉を読んでいると、もしかしたらこの一人ひとりがひとつの事象をそれこそ色んな風に見ているということが、南米の文学のマジックリアリズムみたいな部分と繋がるんだろうなあと思う。
ひどい仕打ちをされたけど、こうしてひとりずつの尋問を聞いていると、死者となったソリボの思い出話をみんながしている、それも物語の世界にむけてではなく警部たちの世界に。警部たちはそれを重要なものとしては聴きはしないのだけれど、でもそれでもそれを聞き、記録するということをしている。
葬式でソリボがしてあげていたその人への語りを、こうして大勢の人がしているということになるのかもしれない。
警部たちが見下している人ほど、世界の真理みたいな話をする
※今日はめっちゃメモ