どうしてボクはいるの? -息子とパパの哲学対話
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著:richard david precht リヒャルト・ダーフィト・プレヒト
訳:柏木ゆう
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内容
パパ(著者)とオスカーくん(息子)の夏休みのベルリン旅行のお話
章立てで20個のテーマについて 哲学対話 形式で進行 哲学対話とは
対話の参加者が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていくという対話のあり方 のことです。
感想
おもしろかった
自分とは誰なのか
正しさとは何か
幸せとは何か
→ 結局のところ、一言で言うと「人それぞれ(おわり)」ということ
でも、一言で答えだけあっても何もならない
「人それぞれ(おわり)」に辿り着くまでの過程に意味がある
問いについてどう思うのか?それが「自分とは誰なのか」ということ
そして、その問いに対してどう考えるのかが「自分 」を形作っている。
過程の考えをいかに深掘りしていくか、というのが哲学なのかなと思った 章のおわりごとに なら~はどうなのか? と次のテーマに流れるように書かれていて読みやすかった
本書中にあるひとつの問がすぐさま新しい問いへとつながってゆくということが表現されていると思った
(哲学とは関係ないけど)いつかドイツ行きたい
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以下、あらすじとパパとオスカーくんの哲学的な洞察 (※文章の語り手はパパ)
Ⅰ.わたしってだぁれ?
↓なぜ星や植物や人間があるんだろう?……自然史博物館で(1)
ぼくらは最初の哲学的な洞察を手に入れたーー
すべての哲学的な問いに答えが出せるわけではない。多くの問に対しては、おおよその答えしか出せない。そしてそうした問の多くが、すぐさま新しい問いへとつながってゆく。
↓なぜわたしがいるの?……自然史博物館で(2)
人間は多くの偶然によって誕生した。そしてこの事の裏にはなにか意味があるのだと思えるような根拠を、わたしたちはほとんどもちあわせていない。
これは多くの人たちにとってはうけいれがたい話だ。ぼくらは自分たちの人生のどんなことにも意味を求める。そうなると、そんな大層な意味なんか無いってことになるのか?
ぼくらの存在はただ偶然によって支配されているのだろうか?
人間はおそらく、自分の生活に意味がなくてはまったく生きられない、ただひとつの動物かもしれない。ぼくらが自分でつくりだしたわけでもなく、ぼくらよりもずっと昔からいた動物たちにさえ、ぼくらは意味を与えるのだーーかれらに名前をつけることによって。
↓人間は動物の名前をどうやって知ったの?……水族館で
わたしたちが見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、手でさわったり、知った気になったりするすべてのものごとは、わたしたち人間によって名を与えられる。そしてわたしたちがそれを名付ける通りに、それが実際にそうあるものと思い込むのだ。
だけれど、これは正しいのだろうか?
↓ネズミは名前をかくせば人気者?……動物園で
わたしたちがものごとをどういうふうに名付けるかは、わたしたちがそれらのものごとについてどんなふうに思い、どんな感情を呼び起こされるかを左右する。なぜなら、わたしたちはことばの響きからさまざまの意味や思いをつくりあげるからだ。
けれども、そうしたことをするのはぼくら人間だけなのだろうか?動物たちも同じことをするのではないか?
↓オオコウモリになるってどんな気分?……ティーアパークで
どんな動物も自分の脳がゆるす範囲のなかでものを考えている。鼻がよくきく動物にとって、においは重要なものだし、目がよくきく動物は目で見ることによって自分の世界をとらえる。「人間のものごと」もあれば、「コウモリのものごと」もある。ほかの動物が何を感じたり考えたりするかを、わたしたちはただ推測することは出来ても、知ることは出来ない。
ときどき人間は自分たちがすべてを知っていて、動物たちよりもはかりしれないくらいかしこいと思いこむ。けれどもぼくらは自分たちが思いこんでいるほど完璧なわけでもなんでもない。
↓透明なゴリラがうろついてる?!……地下鉄の中で
人間は注意力の限られている動物だ。わたしたちの脳は気づいているものを保存するし、気づいていないものも保存する。わたしたちは、気づいているものはよく記憶に留めることができるけれど、気づいていないものには、たいていのばあいは、近づくことができない。
そうこうするうちに、ぼくらは家にたどり着く。
↓「わたし」ってだれのこと?……技術博物館で
重い精神的な病気や障害のないすべての人間は、自分のことを「わたし(ぼく、あたし……)」と言う。けれども、この「わたし」というものがいったいなんなのか、ということを言うのはけっしてそれほどたやすいことではない。
なぜなら……
↓一人ひとりはみんな貴重な"絶滅危惧種"?……マルツァーンの迷路園で
わたしたちは自分がほかのヒトたちとはちがっているのを知っている。もしもほかのヒトたちがいなかったなら、わたしたちは自分がまったく特別だということもわかりはしないだろう。なぜなら、わたしたちの「わたし」というのは、比較することによって生まれるからだ。
さあ、もうそろそろぼくらが家に帰る時間だし、二人の絶滅危惧種が腹ごしらえをする時間だ。
Ⅱ.何が正しいの?
↓頭に穴があいたら悪い人に変わっちゃうなんて……友好島で
わたしたちの脳のなかには感情が生まれる領域というのがある。ほかの領域は、どちらかといえば考えを司っている。けれども、たいがいは感情と考えとはひどくまざりあっている。感情が考えに変わる重要な領域は前頭前皮質の領域だ。この領域はわたしたちが、何がよくて何がわるいのかを決める上で手助けをしている。 さてつぎは、何が公正で何が公正でないか、何がよくて何がわるいか、というやっかいな問題にとりくまなくてはいけない。例えば……
↓もしも線路の上にパパやママが立っていたら……ベルリン中央駅で
わたしたちが道徳的な決断をくだすとき、まったく論理的でない行動をとることがたびたびある。ほかの人間にたいしてどうふるまったらいいのか、その人(たち)をどんなふうにあつかうべきなのか、というときにーー何が正しくて、何がまちがいかを決めるのは、むしろわたしたちの感情のほうだ。
そういうわけで、ぼくらはつぎのテーマにたどりつく。たとえば、ほかの人たちを助けるためにポイントを切り替えるときのように、特定の状況のもとでは人を殺すことだって許されるのだ、という道徳的な"権利"を心に感じる場合がある。けれども、人を殺すことが道徳的な"義務"になったりするばあいも、あるのだろうか?
↓病気の子供達を救うためなら意地悪ばあさんを殺してもいいか?……シャリテの前で
一人の人間の命がもっている価値は、その人がどれだけ訳に立つか、ということではかることはできない。なぜなら、どんな人にも生きることへの絶対的な権利があるからだ。
ぼくらが通常、このことを守ってほかの人たちのことを尊重しているのは、ぼくらがひどい人とか悪い人ではありたくない、ということと何かしら関係がある。けれども、いったいどうしてぼくらは、そういう悪い人にはなりたくないのだろう?
↓泥棒には鏡を見せろ!……プレッツェン湖で
人間は自分自身についてよく考える能力がある。人間は自分自身についてのイメージをもっている。たいていのばあい、わたしたちは自分自身についてもっているイメージが傷つかないように生きようとつとめている。けれども、わたしたちが自分で自分の目をごまかす、ということがよく起こるーー心の奥へと抑え込んで考えないようにしたり、ほかの人と比べたりすることによって。
けれども、ぼくらがよいことをしようとつとめ、そのためにがんばるのは、ぼくらの自己イメージのためばかりではない、というのは、ぼくらはたいてい、ひどいこをあまりやりすぎなければ、自分の人生はうまくゆくと考えているからだ、ぼくらは人生がそれにちゃんと報いてくれるものと思っている。しかし……
↓人を助けてごほうびをもらった人は親切でなくなる?……RAWゲレンデで
なぜ何かをする気になるのか、それには二つのちがう理由がある。ひとつは自分自身がそうしたいからだ。そしてもうひとつは、それとひきかえに報酬がえられるからだ。けれども、いつも報酬をえてばかりいると、いつのまにか自分自身が何をしたいのかが、すっかりわからなくなってしまいかねない。
ぼくらがおこなうことにかんしては、時には報酬なんてまったく問題にすらならないことがある。その代わりに、ぼくらが何かをしないと、ほかの人たちがぼくらを罰するということがある。 ... たとえばぼくらがほかの人たちにたいして不公平な態度をとるときだ。けれども、「公平」であるというのはそもそもどういうことだろう? ↓キュウリをもらっていたサルはどうして怒りだしたか?……「コレ37」で
人間は自分自身にたいして不公平と思うものにたいする感覚を、生まれながらもっている。けれども、ほかの人間も自分自身と同じようにあつかわれたいと思っていることを学ぶのは、もっとあとになってからだーーそもそもちゃんとまなぶとしたら、の話だけれど。
人間に公平になれる能力がそなわっているのは、とてもすばらしい。けれども、ぼくらはそもそも人間んにたいしてだけ公平であるべきだろうか? ... ーーたとえば動物にたいしても。 ↓もしも人間の肉が大好物の宇宙人に征服されたら?……ソーセージ店コノプケの前で
生命の価値というのは、だれがどれくらい美しいとか、どれくらい知能があるか、といったことによっては単純に決まらない。喜びや幸せや不安や痛みを感じることのできる生き物はすべて敬われるべきだ。このことを根本的に考えてみるなら、おそらくこう言わなければならないだろうーーどうやら肉食をやめるべきだという主張は、肉食を弁護する主張よりも優れているし、より説得力があるといえそうだ、と。
さて、ぼくらはもうすでにあるテーマに軽くふれたのだけれど、このテーマについてはじっくり考えてみることを、ここまではまだぜんぜんしてこなかったーーそれは幸せについてだ……
Ⅲ.幸せって何?
↓どうして悩みごとはなくならないの?……サンスーンで
人間はとても知能が高いので、いつも幸せな気持ちではいられない。なぜなら、わたしたちの脳はバランスをうしないやすいからだ。たとえ自分の願いがかない、目標が達成できたとしても、いつも幸せな気持ちでいられるとはかぎらない。
フリードリヒ大王は、本来自分の人生にもとめていたものを、みつけられなかったーーそれは自分の心の安らぎだ。かれがほしかったのは、うつくしいものにかこまれた悩みのない生活だった。けれども美しいものって、一体なんだろう?
↓絶世の美女よりもママのほうがきれいなわけ……新博物館で
美とはわたしたちの頭のなかにあるイメージだ。それはわたしたちの趣味(センス)によってちがってくる。そしてわたしたちの趣味はこれもまた、わたしたちが生きている文化の影響をうけているのだ。客観的な美というものはない。
ところで美しさというものの腹の立つところは、それが不公平に分けあたえられているということだ。 ... これは不公正なことじゃないだろうか? これはぼくらのつぎの哲学的なテーマにつながる。つまり、どういうことが公正なのか、という問題だ。人間の共同生活は、できるかぎり公正にいとなまれるためには、どんなふうでなければならないのか?
↓もしも無人島に不時着した乗客がみんな記憶喪失になっていたら?……プレンターの森で
すべての人にたいしてできる限り公平であり、すべての人にチャンスをあたえてくれるものこそが公正だ。だから、そんをさせられる人が一人もいないようにするために、最も弱い立場の人たちにとって何が公平なのか、という視点にいつも立たなければならない。
けれども、これで問題はすべて解決したのだろうか? ロールズの一番目のルールには、ぼくらはほかの人の自由を制限してはいけないとある。けれども、なぜそうしてはいけないのだろう?そもそも自由って何だろう?そして、どうして自由は大切なんだろうか?
↓雲のかなたには自由なんてない?……壁公園で
してもいいことがたくさんあるとわかると、人間はうれしくなる。けれども、何かをしてもいいという自由は、やはり何かをしてもいいほかの人の自由によって制限される。ほかの人の自由がはじまるところでは、わたしの自由は終わるのだ。このように、自由というのはいつも安全と背中合わせに存在する。もしもすべての人にすべてのことがゆるされたなら、共同生活は恐ろしいありさまになるだろう。
僕たちはまたひとつ学んだ... やってもいいことがたくさんあるという気持ちは、人間にとって大切だということを。これは人生において重要なことのひとつだ。 ... けれども、まだほかに人生で重要なものっていったいなんだろう? ↓人生で1番大事なことってなんだろう?
もしも幸せでありたければ、人生にはぜったいに必要といえる大事なものがたくさんある。何かがーーたとえば楽しんだり、友達が出来たりといったようなことがーー起きることが大事だと思う人がいる。またそのいっぽうでは、何かがーー例えば病気や戦争や迫害がーー起きないことが大事だと思う人もいる。
おはなし
・中国の森の中
・男が罠の毒矢に撃たれた
・医者が呼ばれ、矢を抜こうとする
・すると、男が待ってくれという
・男:矢を抜く前に、この矢を放ったのはどこの誰なのかを知りたい。答えてください。
・医者:私は知らない。そんなことより、今は毒がまわる前に早く矢を抜かなくては…
・当然医者は知るわけないが、男は矢を仕掛けた人物について執拗に知りたがり矢を触らせない
・→ ...「その弓にどんな弦が張ってあったかが、わたしにはいちばん重要なんです。それは楽器用の弦だったのか、それとも針金だったのか?それから、矢じりだ。矢じりはまがっているのか、まっすぐなのか、それとも...」この瞬間に男は息たえた。毒がまわっていたのだ。 -おわり- この人はたくさんの質問にかまけて、本来すべきこと、もっとも大事なことを忘れてしまったんだね。この物語がぼくらに伝えようとしているのは、すべてのものがどこからきているのかってことは、人生ではそれほど重要なことではまったくないのかもしれない、ってことなんだ。
なぜなら、本当に重要なのはーー命を生きる、ってことだからさ!わかるかい?オスカー。
「うん、もちろんさ」
HAHAHA -おわり-
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