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思考が凝り固まっていっている感覚がする 変化系であり続けたい...T_T
18歳以上の人間がなにか変化することは難しいという持論をあげながら自分がその持論に当てはまっているのが耐えられない
でも確かに変わるのって難しいなと思っていて、難しい つらい
同居人に老人になったらどうなっちゃうんだよお前、って言われたけど老人になる前に多分自分の中でのさまざまな辻褄が合わなくなっていつか自死を選びそう と思っています
感じること全ての原因を全部言語化するように努めてからマイナスなことをおもったりするようになったかも
snsに書いてないだけマシなのか?それよりももっと幸せなことも見つけられるようになりたい
同居人もデザイン科のひとだけどずっと「コスパよく」「自分が書かずに成し得たい」ということを言っていてその度に生意気だなあと思う 可愛くないだろう...
昭和の考えに適合できるほどの体力はないものの確かに賛同することも多いなと思っているから
そのコスパうんぬんを考えるのは10年以上先でいいんじゃないかと思う
いや考えるなという話ではなくビギナーこそが一番良い作品をつくれるし(こんな曖昧な持論は根拠にならない)
むずかしい 言語化...
アナログでしかやるなという話でも非効率は美徳という話でもない
言葉が思いついたらまた書きます
視デのタイポグラフィ演習をみた
授業風景やどのようなことをゴールにしているか、授業内で配られたプリントが一冊の本になっているというものだ
これからタイポを受ける生徒とかはみない方がいいかも 多分これに影響されすぎるから
タイポグラフィ教育2/ムサビ
基礎デのタイポグラフィ演習はポスターがメインなのでかなり文字が小さく置かれがちだ
(本も課題の一部でやるが中間課題だし、大多数がイラレで制作するのでここでもかなり文字は小さいしあまり良くない)
視デはスイスタイポというよりモダンタイポ、ニュータイポらへんの作品に似ている気がする
いや文字が小さいのがスイスタイポではないけど
いまだにどれくらいの大きさが耐えられているのか、耐えられてないのかがわからない
造形的な美に不安がある あまりそこの教育というか 感性が磨かれていないから曲線美とかを審査できない かなりさまざまなものを美しいと判断してしまう 印刷していけば、やっていればわかるよと言われた
教育者がそんなこと言わないでほしい 教育を放棄されている
視デのタイポは文字が大きかったり小さかったりして、豊かでいいなと思います
コンクリートポエトリだったり最果タヒのような造形的なタイポもあるけど、あれはあんまりすきじゃなかった
文字はそれだけで形なのに 変に斜めにされると冷める... あれマジで好きじゃないしあまり美しいと思ったためしないんだよな なんでだろう 読みにくいからか?
読みにくいって基礎デのパンクスに脳を焼かれて真っ白な画面を作る人に言われたくないね
やっぱり、文字はそれだけで形でありその美しさがあるのに小細工
小細工感かも もっと、もっと できるだろう 文字とは...文字組みとは、さあ
https://scrapbox.io/files/68b4788b14645426ca392893.jpeg
自作短歌集です 私も小細工をしていたけれど
最果タヒタイポと現代短歌集への怒りで作った短歌集の1ページです
何かを表したいくせに鑑賞者への解釈の道をあまりにも大切にしすぎて中央揃え1行組ばかりをするのが許せない、そのくせ挿絵を入れたかと思ったら不定形のもやもやばかりで それは本当に必要だったのか?作者へのリスペクトと遠慮を履き違えている
文字を覆い隠す、具象イメージを入れるをやった歌人とデザイナーが同一人物だからできる荒技短歌集です
これも一つの答えです 自分の中の 最高だ!と言えるようなものではないけれど