院生室に全くいなかったゼミから一番いつづけるゼミへ(本人たち比)、『学び合い』が考え方だからこそできる姿
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1年が終えようとしています。
コロナ禍のもと、自由な行動が取れずにいますが、大学の通達内でできる範囲で修了生を送るイベントを開きました。 なかなか、好きな自由な行動はできなかったものの、オンラインの活動などを通して昨年度以上に協同的に学べた1年でした。例えれば、物理的な距離感は遠かったものの、精神的な距離感はとても近づいたと思います。 本日の学生のある言葉が印象的です。
昨年度、阿部ゼミの院生はゼミ室にもっともいる時間が短いことで有名でした。でも、今年、阿部ゼミの院生は最もゼミ室に長くいると言えます。その分、たくさん会話をしてとても仲良くなれました。ありがとうございます。 そのように感じられてよかったなぁと思うと同時に、ああっ、『学び合い』の成果かなぁと思いました。 そこかしこで言われていますが、『学び合い』はテクニック(技術)ではなく、考え方です。だから、そこから表出される、導かれる姿は、その都度、構成メンバーの社会的な関係性で大きく異なるはずです。 昨年度の院生たちが仲が悪かったとは思いません。彼らなりの関係性で、距離感でうまい具合に関係性を保っていたのだと思います。
対して、今年度の院生メンバーは心地よく感じる距離感が近いのだと思います。そして、一人で考え、学ぶよりも、近くに話し合う、相談し合う仲間がいることが心地よく感じるということです。
つまりは、どっちがよいかではなくて、構成メンバーによって『学び合い』を通して、今の姿がつくられるということです。それは、構成メンバーが異なれば当然違う姿で見られます。
『学び合い』は考え方なので、その時々の構成メンバーの特質、社会的関係性で表出される(見られる)姿は異なるのです。
健全な『学び合い』の姿だなぁと思って嬉しく思います。
学校現場で『学び合い』の実践をしている方、されようとしている方にお伝えします。
毎年毎年、似たような感じの『学び合い』の姿になるとしたら、少し振り返ってください。構成メンバーが毎年異なるわけだから、同じ『学び合い』の姿が見られるわけはないのです。そこで、同じような『学び合い』の姿が見られるとしたら、自分を疑ってください。
何がそうしているのか。
もしかしたら、自分が「こういう形が『学び合い』なのだ」とはっぱをかけて、自分の思い描く『学び合い』を誘導してはいないだろうか。
コロナ禍のもと、長い時間学生と一緒にいることはできなかったけれど、楽しく過ごすことができた貴重な時間だった。