選択できることの大切さ、管理しようとしつづける悲しさ
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名古屋市の人間ではないし、どのように導入しようとしているのかわかりませんが、もし、「市」という自治体が「一斉に」「全学校に」イエナプランを導入しようとしているのなら、「なんだかなぁ〜」と思います。 わたしは、イエナプランの考えを数冊読んだくらいなので、本質的に理解しているか自信がありませんが、これからの教育に望ましい考え方の一つですし、個人的に好きな考え方です。わたしが日常で「こうするといいのにぃ」と思っていることの多くをイエナプランでは取り入れ行なっています。とっても「民主的」ですしね。でもですね、この「民主的」な教育の考え方をなぜに、「一斉」という「強制(つまり、管理的であり、一義的であり、「非民主的」)」な方向で導入するのでしょうか。 あっ、現段階で名古屋市の考え方がわからないで書いていますので、もし、市が一斉に導入するのではなく、イエナプランのような考え方を取り入れてもいいですよ。市は認めますよ。推奨しますよ。選ぶのは地域や学校ですよ。というのであれば、名古屋市の考え方に賛成します。その際も、イエナプランの学校ではないところにも行きたいと思っている家庭や子どもたちがいたら、そちらに通ってもよいようになっていたら素敵ですね。ついでに、イエナプラン以外の教育の考え方も取り混ぜて市内に導入できたらもっとすてきですね。そしてそして、田舎には「この学校」としか選択肢がないでしょうから、その田舎にいくつかの選択肢ができるといいですね。って、ここまでくると現実的じゃないかなぁ。イエナプランが展開されているオランダでは、とても近いところにいくつか選べるように学校があるという話じゃないですか(伝聞ですけど)。 結局は、過去にあった、一方的に足並みを揃えようとする「日本人的」な考え方から脱却できていないのではないかと思うのです。どんなに「よい」と言われる教育の考え方、方法、であったとしても、それを一義的に、管理的に、強制的に一つのことを導入することが、「イマ」的ではないと思うのです。
「選択」できること、ここがポイントだと思います。
もっとも、過去に、例えば、学校の自由度を高くしようとした教育施策があったと思います。例えば、生活科だったり、総合的な学習の時間だったりです。その時、教員の動向としては、「わたしたちにはうまくできないから」「教科書をつくってほしい」だったり「1年間のモデル」を示してほしいだったりしてますよね。過去に教員の学校の自立性、独自性が見られないことがわかっていて、こちら(国や自治体側)で示さなければと思っている節があるのかもしれませんね。
そこはそこ。
どちらも、覚悟を決めて、少し時間を与えて、学校の教員の「裁量権」を与えてほしいし、与えてもらうことで創意工夫を発揮できるのではないかと思うのです。それには、ちょっとだけ試して、やっぱりダメだ!ではなく、ある程度長い期間が必要なのではないでしょうか…。うーん、これって夢物語かなぁ…どうなんでしょうか。
あっ、最初、イエナプランのことから書き始めていますが、何を言いたいかと言いますと、名古屋市がどうのこうのではなくて、国や自治体が「選択権」「裁量権」をもう少し現場に与えることを考えて、しっかりと教師教育を行なっていくことがこれからの日本の教育転換には必要なのではないかと思うのであります…うーんうーん。