読書感想「茶色の朝」
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Facebookその他でこの本を目にすることが多く、そう言えばちゃんと読んでいないと思って購入。
「23分間の奇跡」と同様に(その趣旨と意味、目的は異なるが)人間の心や状況というものが「主体性」や「(強い)批判的思考(クリティカルな思考)」をもっていないとこうも簡単に「流れていってしまう(流されていってしまう)」ということをシンプルに物語として語ってくれている。 自分とは関係ないとやり過ごして生活していると、気づいたときにはもう遅いということを説明する話としてマルティン・ニーメラー牧師の以下の言葉は有名だ。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
このような意味を感じさせるストーリーを「茶色」をキーワードにやわらかく、(だからこそ)恐ろしく展開している。
こういう話を聞くたびに、書かれていること、言われていることはわかるけれども、小心者で言行一致でありたいと思うわたしのような者にはとても緊張しながら読む文章である。
イデオロギー的なもの、時間軸といういくつかの点では大きく異なるだろうが、「行動の勇気」という意味では「電車の中で、多くの人が迷惑行為と感じるであろうことをしている他者に対し、どのような行為をとることができるか」と問われていることにつながるだろうから。
一般化すると、安っぽい言葉になってしまうのだが、「自分のできる範囲」で「考え続けること」ということから始めるしかないのだろうと思う。
まずは、「当事者意識」をもつことをスタートとして。