現場を離れたことへの代償とこれからの役割へ改めての自覚
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今回は、スタッフとしての参加はなかったので一般参加者の一人として参加。
こうした形で参加することは、自分の現場感覚を枯らせないためにも大切と思って時間があるときと自分の近場で開催されるところに関しては参加したいと思っている。
とはいっても、こうして現場の教員向けの集会に一般参加すると、現場を離れた自分は大きな代償を払っているとひしひしと感じる。
わたしが現場にいたときの「得意」は「修正追試」であった。現場にいたときは本当に回数をあげられないほど、月に何回も民間教育集会に頻繁に参加していた。そこで、ここは自分の中でいろいろと考えることや自分だったらこうするのにと思うことがあったとしても、晴れやかに家に帰ることができた。それは、翌日、自分なりの修正を加えて自分好みに変えて、実践する場(自分が担当する教室空間)があったからだ。そして、この「修正追試」を(他の方が躊躇しているうちに、気が付かないうちに)さらりと行い、インターネットや雑誌原稿に発表することにわたしの存在価値(いわば真骨頂)があった。自分は、現場にいたときの自分の価値をそのように分析している。
さて、民間集会に一般参加したときに、今の自分にはそれがない。(講師等で招かれたときは、御題目や役割、タイトル等をいただいているので別な話だ)
だから、「おもしろい!でもここをこうしたらもっとよくなるんじゃないか!」こう思っても、何をどうすることができない立場にいる。へたな表現方法をとると「現場を知らない人の単なる上から目線(いわばうるさい老害)」になっちゃうもんね。
かつて、「授業づくりネットワーク」は、大学教員と学校現場の方が大いに混ざってのレポート検討、講座体験を定期的に行っていた。わたしが現場にいた時、私自身がレポート発表やワークショップ講座をしているときに大学教員の方も参加して、対等にいろいろと対話活動やご意見をいただいた。あの頃、大学教員の心の内を考えたことがなかったけれど、私なんかよりも数倍も心が広かった方々なのだと改めて思う。
すでに、大学に軸足を移して4年も経とうとしているのだけれど、現場があってこそのわたし、現場をよりよくしていくことに自分の進む道があると思っている自分にとって、こうした民間教育集会とどうやって対等にかついまだからこそのつき合いができるのか考えていけなければならない。まだ、答えが見つからない。