授業づくりネットワーク2018in京都感想
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当日は、京都を含め、近府県で教育イベントが開催されており、ニッチなテーマでニッチな内容をニッチな人物が進行するわが研究会に何人の人が参加してくれるかオドオドしておりましたが、参加定員が集まり、当日のキャンセルは0。参加してくださった皆様に感謝いたします。 ファストフードに対して、スローフードがあるように、主流に反対するわけではありませんが、このままの状態で、今の流れで本当にいいのですか?という感じで取り上げて語り合う、対話し合うのが我が研究会の立ち位置です。決して「けんか」を売るとか、何かを否定するとかではありません。ちょっと違った角度から考えてみましょうよ、というスタンスです。あくまでも穏やかに和やかにですね……(笑)。まさしく、スローフード。まぁ、語呂合わせ的に言うのであれば、スローエデュケーション。もちろん、「異質の学び合い」が根底にありますので、どのような立ち位置、考え方の方であっても「学び合う考えのある方(つまり、自分が正しいと思っていることを一方的に主張して、自分と異なる考えを最初から受け付けない方以外)」であれば、参加大歓迎。 こういう、「穏やか」な会を大切にしていきたいです。
さて、今回は、Facebook等の広報で、わたしの顔写真が大きく取り上げられ(あの顔写真は15年ほど前の写真であり、今と随分様相が違います。特に髪の毛の量が決定的に違いますね…汗)、わたしが大々的にフィーチャーされた形になっていました。こう言う形式は、自分は苦手であり、しかも、阿部に遠い距離にある京都で行っても温度差が大きく、人は集まらないだろうと思っていました。
結果ですが、どうだったでしょう。ここは本人には判断しにくいところですね。
心配の通りにならないようにと自分なりに努力したつもりだったのですが、わたしと参加者との距離はあまり詰められなかった思いがあります。
それは、今回、「自分の実践を語る」ということが、テーマの中心であり、わたしはすでに「実践者」でなくなったことと、「年齢も高齢」であることからかなぁと感じます。
教職大学院に属するわたしとしては、「実践者」だったことは大きな財産であり、武器なのですが、すでに「実践者」ではありませんので「実践者」たちを目の前にしたとき、時分の実践を語ることは果たして武器にならないと思うのです。
自分の「実践」を語ることは、「過去の自分」を語らなければならなくなり、それはわたしの本意ではないと同時に、その場にいる参加者の本意でもないでしょう。わたしの過去の栄光のような話に誰が耳を傾けますでしょうか。もし、そういう話を聞きたい参加者がいる場合は、それは、(いないと思いますが)「あべたか教」の信者となってしまいます。
「実践」を語る場で、わたしが前面に出る「必要性」は今後、ほとんどないことでしょう。
その代わり、「元実践者であった大学人」として、研究会や集会の場で、自分ができることは何か、するべきことは何か、貢献できることは何か、を考え続けようと思っています。そうしないと、それこそわたしの存在価値がなくなってしまいますからね。
わたしが前面に出る時間を終えてから、一緒に本会の運営をしてくださった吉川裕子先生が、何度か、わたしに声をかけてくださいました。 「〇〇は〇〇と考えていいのですかね」
「〇〇ということは、〇〇になるということですね」
「なるほど〜。今後、〇〇は〇〇のように考えていった方がよいということでしょうか」
そういうえば、昨年度も吉川先生は、会の後、わたしにいろいろと話しかけてくださいました。
これは、もしかしたら、吉川先生のリフレクションになるのかもしれませんが、(たぶん、吉川先生以上に)わたしにとって大きなリフレクションの機会と時間になりました。問われることで「あれって、これこれなのかな?」「そうかぁ、自分はその時、これこれのように考えていたのだろうか……」。
自分を見つめる気づきの問いをしてくださった吉川先生に感謝したいです。
となりますと、わたしは、あの会場で、参加された皆さまにこの吉川先生のような行動を取るべきだったと後悔しています。
後悔と書きましたが、まぁ、そういう行動を取るべきと少しは気づいてはいたのです。でも、なかなか体が動かないんですよね。参加者に気楽に声をかけることが怖くて。それが、年を重ねること、歳を取ったと言うことなのかなぁ。
そんな中、石川晋さんだけは、休憩時間、そこかしこで様々な方と学校の様子、授業の様子を、傾聴し、頷き、「もしかしたら〜なのかもねぇ」などと気づきを促すリアクションをされていました。それも、ずっとです。ここが石川さんの偉大さであり、全国各地から声がかかり続ける理由と思いました。まさに行脚ですね。 もう少し、コミュニケーションに長けた人間になりたいと思いつつ、同時に、コミュニケーションに疲れてて、今さらなるべく人と接することを避けたいと思う自分もいるわけで……。
一人で物事を複雑にしています。