帰省は、息子中心から親中心へ
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今年に入って、自宅にいる時の自分の気持ち、構えが今までとは変わってきています。
今までの自分は、自宅にいる時はほぼ100%息子といかに過ごすか、どのように関わるか、ということだけを考えた生活でした。それ以外はほぼ考えられなかったと言っていいくらい。 しかし、今年度に入って、いかに、両親と長い時間過ごすかということを考え始めました。今回も、両親が起きている間は、ずっと両親が過ごす茶の間にわたしもい続けました。 わたしは、大学に勤めるまでは、ずっと自宅で生活していました。その頃(小学校教員の頃)は、自宅は日常で、かつ、仕事場でもあったので、帰ると、夕食を食べる時以外は、2階の自分の部屋にこもりました。そこで、小学校の仕事や趣味の仕事(雑誌・書籍執筆や講座準備等々)、本当の趣味(テレビ鑑賞、映画鑑賞、読書、息子と遊ぶ…)をして残りの時間を過ごしてきました。両親は、大切に思いながらも、自分が生まれた時から当たり前に存在する存在なので、いわば、空気という感覚です。別に粗末に扱ってきたつもりはありませんでした。何しろわたしの唯一の結婚の条件が、両親と一緒に住んでくれることだったのですから(今、これを持ち出すと、それだけで付き合うのを嫌がる人がいることでしょうね)。ですから、今も、わたしの自宅にわたしの両親と一緒に住み続けてくれている妻には本当に感謝しています。 ただ、最近、空気の存在と思ってはいけないのだと思い始めてきました。わたしの両親も妻の両親も幸運ながら健在です。わたしも妻も50歳を越え、それでいて親4人とも健在なのは、とても幸せなことなのだと思います。しかし、歳には勝てません。様々な場面で昔のようにノータッチではすまない状況が出てきました。日常生活のあれこれで、昔であれば簡単にできたことが、とても難しい行いになるようになってきているのです。 息子が高校入学をきっかけに、少し、考えをシフトチェンジしようと思いました。息子は、親にいろいろと介入されるのが嫌な年頃になってきたでしょう。また、そうじゃなかったとしても、親離れ、子離れをするのに丁度よい頃合いです。もちろん、息子が何か、わたしに助けを求めてきたら全てを投げ捨てて助けに行く気持ちでいます。 自宅に帰ることは、わたしの日常ではもはやなくなりました。月に1回、もしくは数ヶ月に1回に帰る程度になっています。ですから、帰る時は、仕事は一切しないと決めました。ずっと、茶の間にいて、妻や両親の日常に付き合うことに決めました。そうすることで、今までの自分には見えなかったことが見えてきます。その程度で、毎日、一緒に過ごしている彼らの生きづらさを分け合うことはできないでしょう。でも、一緒にいる時くらいは一緒にいようと思っています。そんなね、何十日もそこにいなくて、ポッと帰ってきて、その時だけ一緒にいて、なんだか、両親を自分なりに大切に思っている!などと、ここに書いたからと言って、どうのこうのではないのですけどね。やっぱり、自己満足なんだろうけれど。ここに、今、こんなことを思っている自分がいるということを、後で自分で読み返したくて、記録のために書いています。 今更ながらに、考えますよね。
「生きる」ってなんなんだろう。「生きる意味」ってなんなんだろう。
って。