プレゼンテーションソフトに文字をたくさん入れてしまうこと…
いくつかの授業で、学生たちがチームを組んで与えられた、または、自分たちで考えた課題への探求活動を行っている。その成果の形として「発表」がある。多くはプレゼンテーションソフト等で発表という形をとる。今、前期の後半に入り、プレゼンテーションソフトでのまとめに入る時間が多くなってきた。
授業なので、学生たちの探求活動の様子を見て回り、チャチを入れたり(笑)、助言をしたりしている。
プレゼンテーションソフトの画面を見ると、一生懸命調べた、または、見つけた、文献で、自分が大事だと思った部分を一生懸命書き写しているようだ。その結果、プレゼンテーションソフトの1画面には、文字があふれることになる。
気持ちはわかる。
しかし、目的を考えたほうがいい。
作成した画面をスクリーンに映し出して多くの聴衆に聞いてもらいたい、知ってもらいたい、感じてもらいたいのであるのなら1画面にたくさんの文字を入れ込むのは眠くなる、難しそうと思わせる、集中力を失わせるという効果はありつつも、効果的に伝わるということにはならないだろうと考える。
もし、1画面にたくさんの文字を入れたプレゼンテーション画面を作成し、それを印刷配布して手元の資料として使うのであればそれはそれで有用にはなるだろう。
わたしが思うに、
聴衆に情報が伝わるように効果的に話すときのツール
聴衆に配布する資料
という2つを1つにまとめようとしてしまう結果、どちらかというと発表時に使うプレゼンテーション画面の方に力を注ぐことができずに、終わってしまうことが多いのではないか。
プレゼンテーションのいくつかには、プレゼンテーション画面をそのまま印刷して配布するのではなく、配布資料は別に用意することということを書いている。わたしは、それに納得して自分が発表するときで、かつ、配布資料を必要とするときは別資料を準備している。
しかし、その話を知人に話したら、聞き手は目の前で映し出されているプレゼン画面が手元にあることを求めるし、安心するものだよと、返された。なるほど。それはそれでわかる。自分も聞き手で参加する時、手元の資料をパラパラめくって、話を聞き入ることがある。
考えてみれば、学生が、プレゼンテーションソフトを使って模擬授業を展開する時、目の前の探求活動をまとめているような文字数が多くなるまとめ方はしない。自然にイメージ優先の比較的視覚に訴える作り方になる。
つまりは、その都度その都度の目的意識がそのままプレゼンテーション画面にも反映されるのだろう。
そして、それが聴衆を含めた参加者が同じ気持ちで共有できていれば違和感がなく進められるのだろう。