それぞれの「学び手中心」の授業が存在するということ
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「授業づくりネットワーク集会in郡山2019」に参加して全体的に感じたことを記す。
例えばある授業を参観した後、
「今日の授業は、とってもいい授業でしたね」
と参観された方同士、会話をしているところを見かけるときがある。しかし、その会話が噛み合っているかと言うと…?である。
なぜなら、ここで言う「いい授業」の「いい授業」は人によって違うからである。例えば、教師のコントロールが効いていて進行するところを見て「いい授業」と言うかもしれないし、子どもたちが途切れなく発言し続ける姿を見て「いい授業」と言うかもしれないし、発言の内容を吟味して「いい授業」と言っているかもしれないし…と様々だろう。
それと同じことが「学習者中心の授業」という言葉にも言える。あまりにも、さらりと「学習者中心の授業は〜」のように、いかにも「学習者中心の授業」を誰もが同じ共通認識のもと語っているという前提に立って話していくと、語り合う授業内容に大きなくい違いが生じるように思う。
これって、「いい授業でしたね」と言って、互いに誤解をして会話が進む以上に深刻のように感じる。なぜなら、「いい授業」の「いい」はまだ曖昧さが大きいということで互いに同じことを「いい授業」というようにしているかという疑問は簡単に浮かび上がるように思うけど、「学習者中心の授業」という言葉は「学習者中心」という方向性を一定に位置づける言葉を使っているがゆえに、あたかも「同じ立場で同じ方向性」を語っているわたしたち、という感覚に陥るのではないかと思う。
実は、昨日も同じ「学習者中心の授業」という言葉を各実践報告者が使っていたにもかかわらず、ずいぶんと考え方が異なる「学習者中心の授業」を展開、発表していたように思う。ちなみに、念のため書いておくと、プログラミング教育とか総合的な学習の時間とか外部講師を招いた授業という見た目の違いのことを指しているのではない。
とはいいつつ、この場で話す「学習者中心の授業」という定義をしっかり定めてから話さなければならないかと言うとたぶんそれはよしあしで、そこをはっきりさせないからこそ話し合いや情報交換が進む場合があるだろう。わたし個人の立場としては、基本、方法論などは事例としてたくさん知っておきたいけれども、そこは自分の興味関心の中心ではまったくなくて、各自の「学習者中心の授業」の核、ゆずれないもの、がどういうものなのだろうか…というところばっかりを考えていた。
このわたしの考えを昨日の場に表明するかどうかは、ちょっと躊躇して、結局は一言もあの場では語らなかったのだけれども、それはあの場にいる方々の興味の中心ではなさそうだとわたしが勝手に解釈して出さなかっただけである。
ということで、多様性は大切と言われ、昨日参加したわたしは、参加者の中では少数派と言うかマイノリティに位置したわけだが、その時の参加の仕方って難しいなぁと思った。