あべたかは『学び合い』を「考え方」として取り入れていたのか、「方法」として取り入れていたのか
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(教室『学び合い』フォーラムで撮影した写真が、この1日目の昼食の写真だけだったのでこれを載せます(^0^;))
今回、単なる一参加者のわたしとしては、頭の中をフラットにしての、情報入力、そして、情報交換。いい時間でした。
さて、この2日間、わたしにとって最も頭に残った会話とその答えを書いておきます。
1日目の「フリートーク」の時、もともとの知人のある方々から尋ねられました。
「改めて伺いますが、あべたかさんは、『学び合い』を「考え方」として取り入れていましたか?「方法」として取り入れていましたか?」
わたしは、当たり前に「考え方」で取り入れていたつもりだったのですが、答えに詰まりました。「考え方です」と答えるのはいいとして、「なぜかといいますと〜」というところでパッと出てこなかったからです。
その代わりに、「えっと…どうして、そういうことをわたしに聞いてみようと思ったのですか?」と尋ね返していました。するとその方々は、どこかの『学び合い』の会か何かで「あべたかさんは、『学び合い』を方法として捉えている」というようなことを誰かが当たり前に話されていたということだったかららしいです。
なるほど。わたしのことを『学び合い』を「方法としてとらえている」と思っている人は数多いだろうなぁと思います。
理由を2つ想像できます。
第二に、わたしは、『学び合い』授業の実践例や具体的場面をそれなりに数多く書いている人間の一人です。授業場面を書くと(その書き方によって)、方法的に映って見えてしまうからです。
その時の答えは、スッキリとした答えを話すことができず、「うーん、考え方を表出するにはある程度、その方々の得意不得意、こだわり、好き嫌いが反映されるしそれが方法となって現れることがあるかもしれないから、考え方でもあり、方法でもあるみたいな答えになるのですかね…」みたいな、ちょっと淀んだ答えをしてしまいました。
1日目、懇親会を終えて、ホテルに戻り、早めにベッドに潜りました。
しかし、寝る瞬間も、寝ていて時々起きた時もなぜか、「あべたかは『学び合い』を考え方で取り入れていたのか、方法で取り入れていたのか」という質問が繰り返されていました。
朝、起きた時、くっきりと答えが浮かびました。
もう(わたしとしては)完璧な答えです。
わたしは、『学び合い』を「考え方」で取り入れて行っていました。
なぜなら、全ての授業をはじめ、朝の会や給食、清掃という学校教育活動、遠足や学習発表会、運動会等の行事に至るまで、全て『学び合い』(の考え方)をスタートとして(当たり前として)企画したり、計画したり、運営したり、していたからです。
少し具体的に書くならば、この時は、(この授業の時は)『学び合い』でやるけれども、この時は、(この授業の時は)『学び合い』でやらない、となったときは、「方法論」で捉えているということになりますよね?(もちろん、毎時間、いつでも、『学び合い』の考えで進めたいにもかかわらず、外的環境、保護者や管理職、その他が『学び合い』を許してくれないので、ある一部分にだけしか『学び合い』を取り入れられないという方もいることとは思います)そうではなく、どんなときでも当たり前に『学び合い』を前提に考えていたということです。だから、「考え方」です。
これ、わたしとしてはあまりにも「当たり前」すぎて忘れていました。
たまに、講座等でみなさんにおだやかに「『学び合い』の日常化を目指しましょう」みたいなことを言うときがあります。この言葉を借りれば、上の状態は「『学び合い』の日常化」といえばそうなのですが、まだしっくりきません。何事も『学び合い』の考え方からわたしの場合、始まっているのです。
もっとも、こうした場合、まじめにみなさんと話すとして、わたしの言う「『学び合い』の考え方」とあなたの考える「『学び合い』の考え方」は異なるかもしれませんので、すり合わせは必要ですね。
たぶん、ここの立ち位置の微妙な違いで、『学び合い』の授業も表出する子どもたちの育ちも、教師の言動もいろいろと変わってくると思います。例えば、わたしの学級の子どもたちは円陣を組んでエイエイオー!的な子どもたちは育ちません。わたしはそうじゃないだろう……と思っているので(笑)。でも、同じ『学び合い』実践者、研究者の中にはこちらの方向性に導こうとする方もいらっしゃることでしょう。
今は、わたしは小学校教員を辞めて、大学の教員として生活しています。
ちなみに、授業は『学び合い』です。
ゼミ生(学部5人、大学院生12人)が2018年現在、わたしのところに所属しています。ゼミ運営は『学び合い』です。『学び合い』の考え方で運営しています。
普段、わたしは講座、講演でお願いされない限り、自分から「『学び合い』」(例えば、二重カギカッコ学び合い、というように呼ぶとそれこそ、方法論、思想のように見えてしまって、響いて受け止められるのではないかと考えて自分では口にしません)という言葉を進んで使いません。学生さんは、そのあたりをどのように感じているかはわかりませんけれど。『学び合い』と口にすればするほど空虚に感じることがあります。
例えば、男女平等が実現されている社会では「男女平等」という言葉を連呼しないはずです。(もちろん、男女平等という概念を持っている人間が一人もいないから誰も言わないという可能性もあります)『学び合い』を言い続ければいい続けるほど、『学び合い』が広がっていない(広げられない)ことを認めているようなものです。
ととと…。
長くなりました。
いろいろと考えた「教室『学び合い』フォーラムin静岡」でした。関係各位に感謝いたします。