「授業づくりネットワーク2018in新潟」終了!
https://gyazo.com/60f43aa718f679fc718928cabe5651d1
昨年度から今年にかけて、本セミナーでは、1人の実践者に焦点を当てて、「実践者の教育実践講座」「雑誌論文を読む」「座談会で実践者のライフヒストリー的な背景を探る」ということをしています。
もちろん、片山先生を象徴づけているのはICT実践ですから、そこにまつわる話はちょこちょこと出てきました。しかし、その実践の紹介や、その実践を通して見られる子どもたちの姿に注視していくと、ICT実践の奥底にある片山先生の授業観や授業デザイン観がみなさん気になってきました。そのあたりを伺っていくと、実は吉本均先生や築地久子先生が片山先生の授業を構想していくときの根本だったり、参考だったり、憧憬だったりがあることがわかってきました。 石川晋さんが、築地久子先生の授業を、今の時代に合わせて展開させているような感じという表現(これ、わたしの記憶です。正確ではありません)をされていました。なるほど、言い得て妙です。 わたしの中で明らかになったことは、ICTは様々なところで言われているとおり、「ツール」なので、その先生が授業を展開するとき、結局は自分の「授業観」に照らし合わせてのICT活用になるということです。これは、自分自身のことを考えてもよくわかります。わたしはICT実践と考えるとき、まず最初に「子どもたち自身がPCやタブレットを使って授業を進めることができないか」ということを第一に考えます。それがダメだったときに少しずつ、自分(つまり教師)が活用するところへ「しかたなく」引いてくる感じです。これは、わたしの中の「当たり前の授業観」がそうさせているのでしょう。
もちろん、1人に1台のiPadがあるか、教室で1台しかiPadが使えないかということで、「やりたい実践ができない」ということがあります。そういう意味では、他の授業方法や授業の考え方とはICTはずいぶん異なります。
とはいいながら、改めて、当たり前に言われていることですが、「どんな授業観」のもとで「ICT実践」を展開しているかがポイントであることがわたしの中でクリアになりました。
そして、今まで片山先生の授業実践がとても魅力的に見えたのは、ICTの活用方法はもちろんのこと、そのようにICT活用をしようと考える授業実践の背景(授業観)が、わたしが目指したい授業に方向性が似ているからだとわかりました。
会全体のことを考えると……
最後に、参加してくださった方のことを考えてみます。
わたしたち、主催者側「だけ」が楽しむ、盛り上がったのではしかたありません。
実績のある実践者の方から話を伺っていくと、その背景に、わたしたちも本や講座、実際の授業等々から学んだ方の「お名前」が飛び出してきて、その瞬間、一気にその共通点で盛り上がる感じになります。ここを共有できる方が目の前にいる場合は、一緒に頭の中で同じ世界に旅立てますが、そうじゃ無い方にとっては、ものすごく退屈な、何言っているんだよ!君たち!内輪ウケじゃん!ということになります。
うーん、難しいですね。
そうしてはいけないと思いつつも、そして、今、新しい教育観、授業観で、授業をデザインしなくてはいけないのではないですかと、わたしなんかは提案してしまうわけですが、とはいっても、そうした先達、先人から学ぶということもしたいし、していただけたらなあと思うわけです。もちろん、今にリニューアルした形にしてですね(この過去の考えや方法を今にリニューアルするということが「面白い」ことと思うのですけどね、わたしは)。
わたしたちが今、取り組んでいる「教育実践論文を読み合う」ということにしてもそうです。映像、ワークショップ体験、等々からも学べると思いますが、「文章(言葉)の読み書き」は(今、わたし、こうしてブログに書くということでやっていますが)自分の頭の中に落とし込む作業として有効だと思うのです。これを「教員」として、「好き」になれなくても、「苦痛なく行える」程度にはなりたいなぁと思うわけです。
【追伸】
こういう場で、様々な方と会話をしていますと、自分の「知識」の少なさ、「知見」の足りなさをとてもとても感じます。
周囲から、自虐コメントが多くそれがわたしのキャラになっているとか、日本人は一般的に自尊感情が低いとか言われているので、「自分は自分」そこはその方と同じような「知識」「知見」はなくても、わたしにはわたしにだからこその「良い点」があるはずと思いたいのですが……。あまりにも、ダメダメすぎて、落ち込みますわ。