「そんなことして何の意味があるの?」に対して「何の意味もないけど?」とドヤ顔で返事できるようになるまでに知っておくべきこと
(本稿はアドベントカレンダー ほぼ厚木の民 向けの記事として書かれました) --
「そんなことやって、何の意味があるの?」――そう訊かれて、答えに困ってしまったことはありませんか? あるいは、その質問に対してむりやり答えをひねり出し、その不合理な点にツッコミを食らってさらに困った目に遭ったことはありませんか?
ないのであれば、この先を読んでもあなたの役に立つであろうことは何ひとつ書かれていませんから、このページを閉じていただくのが最善の行動です。
あるのであれば、では、なぜこの質問に困ってしまうのでしょうか? 「特に意味がないから」……という答えは、それはそれで、おそらく正しいのでしょう。しかし、それでは不十分です。困る理由を説明できていません。だって、意味がないならば意味がないと、あっけらかんとして答えてしまえばよいではありませんか。
ならば、なぜそれができないのでしょう? それがわかれば、困らずに済むようになるかもしれません。この文章では、「特に意味はないよ」と答えにくい理由について考えるとともに、そう答えやすくなるようなアプローチについて論じてみます。
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例え話をしましょう。子供がお気に入りのおもちゃで延々と遊び続けています。それを見た親は、「いつまでも遊んでいないで、学校の宿題をしなさい」と子供に言いつけます。子供はしぶしぶ遊ぶのをやめて、机の上に教科書とノートを広げます。しかし遅々として進まない宿題を前に、とうとう子供は、この質問をこぼすに至ります。「勉強なんかして、なんの意味があるの?」親は答えます。「勉強ができると褒めてもらえるから」「文章を読んだり四則演算くらいできないと日常生活にすら事欠くから」「いい学校に進学できるから」「さらに高度な概念の習得の基礎になるから」。子供の年齢やレベルに合わせて、無数の回答を用意することができるでしょう。それを聞いて、子供はため息をつきながらも宿題を進め、やがて終わらせます。
そのさまが簡単に想像できるほどありふれた光景ですが、よくよく考えてみると、これは不思議な現象です。おもちゃで遊んでいる間は、子供は、そしてもちろん親も、その意味を考えることはありません。しかし、宿題をする時には、学問の意味というとてつもない難問を、ごく自然に問い、答えることになるのです。
これに類する作業、すなわち自分あるいは他人の行動の意味を考える、あるいは行動に意味を与えるという作業を、わたしたちは何度となく繰り返しながら暮らしています。それには、もちろん理由があります。
全ての物事には意味がある。そんな「聴こえのよい」言葉が人口に膾炙するようになってどれだけの月日が過ぎたかは言語学者の研究に任せるとして、いずれにしろ、いつの頃からか、この表現は、様々なメディアを介して、何度も何度も繰り返されるほどに有名、かつ人気のある表現となっています。
この言葉が出てくる状況というのは、たいていの場合において、こういう文脈です。「自分は今とてもつらい状況にあるけれども、それを乗り越えた時には一回り成長した自分になれているはず」。あるいは、「自分が今やっていることは必ず将来役に立つ、だから無意味じゃない」。端的に言えば、望んだ通りの結果が得られなかった、または得られそうにない場合に使われる表現です。
そんな表現がこれだけ広く使われるものになったというのは、おそらくこの表現が人々の想いにフィットしている、すなわち多くの人々の耳に心地良く響くからなのでしょうから、いかにこの世の中が思い通りにならないかというのが伺い知れるというものですが、それはともかくとして、なぜこの表現が心地良く響くのかを考えてみると、そこに隠れた前提があることはすぐに明らかになります。つまり、「意味があるならば、つらいこともやれる。やってもいいと思う」。
たしかに、これは正しいでしょう。それを示すエピソードは、さきほどの子供の宿題という例も含め、枚挙に暇がありません。逆に、人は無意味な労働には耐えられないということも、穴を掘っては埋め戻す作業を繰り返すことが刑罰や拷問にすらなっていたという歴史的事実などから示されています。
ところが、です。「意味があるつらいことはできる」、「意味がないつらいことはできない」。おそらくは正しいであろうこれらのことを前提として暮らしていると、不思議なもので、人というのはちょっとした飛躍をしてしまいます。まず、「意味があることはできる」、「意味がないことはできない」。次に、「意味があることをやるべきだ」「意味がないことはやるべきでない」。そして、「意味があることだけをやらなければならない」「意味がないことはやってはならない」。さらには、「意味のないことには、価値も同様にない」「意味のないことをやる奴はバカだ」というあたりが最終形でしょうか。もしも「全ての物事には意味がある」が正しいならば、その対偶「意味がなければ物事ではない」も自動的に正しいので、言っていることはほとんど同じです。
それが本当に『飛躍』なのか、つまりこれらが正しいか否かについては、ここで論じるつもりはありません。問題は、これらが正しいにしろ正しくないにしろ、こうしたことは日常的に言われていて、わたしたちの中にいつの間にか少しずつすり込まれているということです。親に言われた、学校の先生がそう言っていた、映画やドラマにそういうセリフがあった、昔話に出てくるウサギが無駄なことをやってサルに笑われていた、そうしたありとあらゆるところから、「意味があることだけをやるべきだ」「意味のないことには、価値も同様にない」「意味のないことをやる奴はバカだ」という価値観がすり込まれて、その価値観をいつの間にかわたしたちの多くが共有しているのです。だからこそ、この質問が成立するわけです――「そんなことやって、何の意味があるの?」
誰かが他の人から見て意味のない行動をしているとき、ある人は単に何かの意味があるに違いないと信じて、またある人は「それをやめさせたい」という明確な意思を持って、またある人は無意味に見える行動をする人を揶揄するという悪意とともに、この質問を投げかけます。
その質問を受けた側としては、合理的な意味が答えられれば問題なくその場を終えられます。しかし、特に合理的な意味がないケースには、答えに窮します。意味がないと言ってしまうと、自分のやっていることの価値の否定になるし、そんなことをやっている自分はバカだと思われてしまう、または自分でそう思ってしまうからです。だから、その場しのぎになんとなくそれっぽい答えを返してみたり、場合によってはあらかじめ答えを用意しておいたりさえしてしまうのです。
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こうした理由で、人は「そんなことやって、何の意味があるの?」という質問をしてしまうし、その答えに困ってしまいます。ですから、この質問に困らないようになるためには、まずその原因であるところの価値観を疑ってみることから始めるのがよいでしょう。そのアプローチのひとつとして、物事の価値を、『意味』と『強度』の二つの概念に分ける、という考え方があります。以下では、その考え方についてご紹介します。
まず、「意味」です。意味というのは、一言で言えば、「何かの役に立つ」ということです。がんばって勉強すれば、試験でいい点数が取れる。ボランティア活動をすれば、地域に貢献できる。車の免許を取れば、仕事にも余暇にも便利に使える。これらの例はすべて、ある行動の意味に関して述べたものです。「そんなことやって、何の意味があるの?」という質問は、ほとんどすべての場合において「そんなことやって、何の役に立つの?」という質問に置き換えて差し支えありませんし、この定義または解釈に特に違和感を覚えることもないでしょう。
意味という言葉をそう解釈すると、意味という概念の性質が少しずつ見えてきます。言えることはおそらくいくつもあるのでしょうが、この場で取り上げるのは、「意味とは、物事の価値を先送りにし続ける性質を持つ概念である」ということです。
さきほどと同じように、勉強という例を考えてみましょう。「勉強することに、何の意味があるの?」 この質問には、例えば「試験でいい点数が取れる」という答えが考えられます。しかし、そう答えてしまうと、すぐに次の質問が出てきます。すなわち、「試験でいい点数を取ることに、何の意味があるの?」 では、答えましょう。「いい高校に入学できる」。はい、次の質問です。「いい高校に入学することに、何の意味があるの?」「いい大学に行ける」「いい大学に行くことに、何の意味があるの?」「いい就職先に行ける」「いい就職先に行くことに、何の意味があるの?」……
日常的な会話においては、こんなやりとりを延々と続けるわけにはいきませんから、どこか適当なところで「納得」して質問を切り上げるのでしょう。勉強するのは、いい高校に入るために役に立つ。いい高校に入ることは、いい大学に入るために役に立つ。いい大学に入ることは、いい就職先に入るために役に立つ。つまり、勉強することは、いい就職先に入るのに役に立つ、だから価値がある……というわけです。いかがでしょうか。この例でさえ、勉強をすることによって生まれる価値が、ずいぶん後になって得られるように感じられませんか。いい高校に入ったとして、就職するまでには7年もの期間があります。そして、その7年の後ですら、「よりよい職業に就く意味は?」という次の質問が待っているのです。やってみればすぐにわかりますが、このような意味を問う質問は、永遠に続けることができます。意味という概念は、ある物事の価値を永遠に先送りにし続けるものなのです。
そうだとすると、意味を追い続ける限り、今わたしたちがやっていることの価値は、延々と先送りにされ続けて、いつまで経っても回収することができません。何をやろうとも、わたしたちはその価値を享受することができないのです。意味だけを追求すると、その先には再帰的な意味の追求以外の何もなく、したがって逆説的に、あらゆる物事の価値がなくなり、それらすべてが無意味となる。それはあまりにも皮肉ですが、ということは、わたしたちがわたしたちの行動や周囲のできごとといった物事から価値を回収するには、意味以外の概念が必要になります。つまり、価値を先送りにせず、その場で消費してしまえる概念です。
それが、「強度」という概念です。これは、ドゥルーズ的なポスト構造主義の文脈において提唱された概念で、フランス語のアンタンシテ、英語で言うintensityの訳語です。「強度」と訳してしまうと若干意味がずれてしまう感はあり、社会学者の宮台真司は「密度」や「濃密さ」と訳した方がわかりやすいかもしれないと述べています。
強度とは何かをものすごく簡単に言えば、「今この瞬間、すばらしい体験をしている」ということです。例を挙げればきりがありませんが、とてもおいしいものを食べているその瞬間、大好きな音楽を聴いているその瞬間、お気に入りの布団に包まってまどろんでいるその瞬間、大切なパートナーとベッドを共にしているその瞬間、あなたは幸せなはずです。その「幸せさ」、言葉を変えて言えば「幸せだと感じることそのもの」が、強度です。
強度はその瞬間に感じているものであって、後には残りませんから、先送りはありません。その点で、強度は意味の対極にある概念です。この概念を導入することで、わたしたちは初めて、わたしたちがやったことの価値を享受し消費することができるようになります。汗水たらして働いて稼いだ金で酒をかっ食らう。酒を飲むこと自体にはもしかしたら意味がないかもしれませんが、そうは言っても酒はうまい。その瞬間に、働いたことの意味を強度として消費する、つまり働いた価値を享受しているわけです。こう考えると、わたしたちの人生は、意味と強度、この両方があって初めて充実したものになるのだということがわかります。
これによって、意味のない物事の価値を、強度という形で、明確に主張できるようになります。「そんなことやって、何の意味があるの?」に対し、「何の意味もないけど?」と答えられるようになる瞬間です。「だって楽しいじゃん!」という、一見子供でもできそうな答えは、実は明確な論理に裏打ちされた「めちゃくちゃ正しい」「極めてロジカルな」答えなのです。場合によっては、「そんな意味のないことやって、バカじゃないの?」とか言ってくる相手に、「強度って概念知らないの? 意味だけ追求してもその先に何もないだろJK」のようなドヤ顔を決めてやったって構わないのです。ただし、そこに広がるのは、意味マウントを取ってくる相手に強度マウントを取り返すという地獄のような光景ですので、多用は禁物ですけれども。
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こういった思索を通してわかる通り、意味が絶対的な価値だというわけではありません。その割に、どうも社会というやつは意味というものを絶対視しているフシがあります。週末に日がな一日部屋にこもって好きなことばっかりダラダラやって過ごすのは最高ですが、そのことに罪悪感を覚えるのであれば、もしかしたらあなたも、知らないうちに、自分が本来望んでいるよりもずっと意味に重心を寄せた生き方をしてしまっているのかもしれません。それは言うなれば、意味に縛られた窮屈な生き方です。一見意味がなさそうな行動に対するチャレンジの機会すら奪う考え方です。そこに強度という概念を持ち込めば、その縛りから解放されて、もっと楽に、自由に、生きていけそうな気がしてきませんか。
それでもまだ罪悪感が消えないというのであれば、ノーベル賞物理学者リチャード・ファインマンの有名な逸話をご紹介しましょう。破天荒で知られたファインマンの痛快と言う他ないエピソードを集めた書籍「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の中で語られたこの逸話は、意味と強度の関係を端的に描き出しています。
『コーネル大学の教授時代、原爆開発の反動で研究意欲を失っていた。その間も来るいろいろな研究所や大学からのオファーにストレスを感じていたが、あるとき「自分は遊びながら物理をやっていこう」と決心した。その頃たまたまカフェテリアに居合わせた男性が皿を使ってジャグリングしている場面に遭遇、皿が回転するときは横に揺れている事に気づき、その運動を解明するために、皿を構成する質点の運動をすべて計算するなど単なる好奇心から計算を行った。そのときは全く意味がなく、ただの「遊び」でニュートンの法則だけを用いてその事象の計算を行い証明した。その計算をベーテに披露するも「それが何の役に立つんだ?」と訝られ「だけど面白いだろう?」と答えるとベーテも得心した様子だったという。結果としてその時の洞察が基になって、後々ノーベル賞を受賞する布石になる。』
彼らが意味と強度という言葉を知っていたかどうかはわかりません。ですが、その概念は明確に理解していました。そんな二人の会話は、かくも軽やかです。このとき、ファインマンは意味ではなく強度のために計算を行いました。それが、後になってノーベル賞を受賞するという意味につながるのです。
強度が意味につながっていくケースというのは、他にいくらでも例がある通り、珍しいものではありません。ですから、意味を偏重する社会であっても、ただひたすら強度を追い求める瞬間があってもいいとは思いませんか。ほら、どうやら「全ての物事には意味がある」らしいではないですか。一見無為に過ごしたように見える一日にも、きっと意味はあります――というのは、さすがに冗談であるとしても。
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そういうことですから、強度を追い求める生活、いわゆる自堕落な生活というのは、「論理的に正しい」わけです。かといって、意味を求めて努力する生活が「論理的に間違っている」わけでは決してありません。重要なのは、意味と強度のバランスです。意味だけでも、強度だけでも、人は生きていけないわけですから、その間のどこかにちょうどいい点があるはずです。
その「ちょうどいい点」というのは、もちろん人によって異なります。ですが、さきほど触れたように、社会というやつは意味を偏重するようにできているみたいですから、意識せずに生きていると、いつの間にかあなたもそうなってしまいます。それを良しとするか悪しとするかはもちろんあなた次第ですが、もしも生きづらさを感じているようでしたら、意味と強度をキーワードに、そのバランスを見直して、より生きやすく、充実した人生を歩んでいってくださることを願って止みません。その人生には、「そんなことやって、何の意味があるの?」と訊かれて、「何の意味もないけど?」と何の気負いも後ろめたさもなく答えられる未来が待っているのですから。