明晰さに耽らないことと暇について
なんとなく、みんなが感じている「暇になるとゆとりができて視野が広くなるよね」っていうことの気流のなる音流の言語化です、 明晰さとは、自分のいる世界について知っていること。自分の世界についての解像度が高いこと。
しかし明晰さは罠となりうる。
言葉の世界で生きている人。言葉に耽るその人は確かに「明晰」かもしれないが、<明晰>ではないのである。
言葉の世界に閉じ込められてしまう。言葉以外の世界があることに気がつかないそれを受け入れることのできないままに死んでしまう。「明晰さ」に耽ってしまった結果。
本の中で結構好きだった例がこれ。
目が見えない人たちが数名いて像を触る。
鼻を触った人は「蛇のよう」
尻尾を触った人は「ひものよう」
脚を触った人は「柱のよう」
これを目の見える人が俯瞰して「像じゃんw」っていう
→でも実際は目の見える人の感覚が彼らの感覚より優れている訳ではなく彼が笑うのはおかしこと。
それぞれがそれぞれの世界に住んでいて、実際は別に目が見える世界が優位ということはない。問題は我々がそのような世界に馴染んでしまったこと。これが「明晰さ」の罠。自分のいる世界以外を信じられなくなる、下に見る。
することに時間を割いていると、それに特化した世界でしか物を見られなくなる→産学官のものの見方の違い。その違いを乗り越えようとするのはいいこと、その違いを生かそうとするのはいいこと、でもそ世界の中に閉じこもってしまうと何も見えなくなる。 自分ごととして捉えると、やっぱり自分が今していること、その視点からでしかものが捉えられなくなる、暇は「明晰さ」の罠に陥らないことを助けてくれる。自分がただあることによって視点にとらわれない。