ボードゲームで遊ぶ場のファシリテーター
ファシリテーター facilitator とは、直訳するならば促進者です。
「容易にする」「円滑にする」などのを意味するfacilsというラテン語が語源です。
ボードゲームで遊ぶ場でも、ファシリテーターに関する言説がしばしば見られるようになりました。
例えばルール説明の担い手を「ファシリテーター」と呼ぶなど。
ここではゲームを円滑に進め、遊び手の体験を豊かにするための、特殊な技能が必要かのように語られます。
しかしながらボードゲームで遊ぶ場には、人間によるファシリテーターは本来、必要ありません。
なぜなら、ボードゲームそのものがファシリテーターの役を担っているのですから。
デザイナーが熟慮を重ねて設計したルール、コンポーネント、世界観など、ボードゲームを構成する要素全体が、プレイヤーの行動を導き、思考を促し、遊びの体験を生むための構造として機能します。
ゲーム自体が、プレイヤー間の相互作用を触発する、静かで力強いファシリテーターであり、また、そのようなファシリテーターであることが優れたゲームの条件とも言えるでしょう。
そもそも「ファシリテーター」という語は、安易に使える言葉ではありません。
この役割の源流は、レヴィンのTグループや、ロジャーズのパーソン・センタード・アプローチに遡ります。
これらはその場で、同じ心理的なドラマ(モレノ)を共有する各人のいま、ここでの経験を扱い、個人の成長とグループの成熟といった、極めて深いレベルでの変容ないしは適用を目的とする、専門的な対人援助の技術です。
ですから、例えば会議の運営者やイベントの司会者に、「ファシリテーター」の語を用いることは、この意味では誤りです。
そして、ボードゲームで遊ぶ場に「ファシリテーター」の語を持ち込むことも同様です。
こどもに対して:
前述の通りファシリテーターには教育者の側面があるわけですが、こどもとは「人格の完成した主体」ではありません。
というよりか教育基本法の第一条において「人格の完成を目指」すのですから、人格が未完成な存在であるとみなすのが、近代における「こども」という概念です。
こどもに対しては、ファシリテーターは不要であるばかりか、人格を前提とする介入は、彼/彼女の文化資本を前景化させる善いとは言い難い振る舞いです。
曖昧な自己成長のようなものを促す介入ではなく、知のストックを正確に伝えることが、近代的な教育だったはずです。
成人に対して:
人格の完成した者として一旦みなすことができる成人は、自らの責任によってボードゲームを遊ぶことを決めます。
もし事前に、「成長のために」とか「対人援助を受けるために」と約束してボードゲームをプレイしに集まったのならば別ですが、おそらくそのようななシーンは非常に稀でしょう。
自己充足的な行為のために集まった彼ら/彼女らにとって、事前に同意していない外部の目的(成長、チームワークなど)を前提とする介入を、本来のファシリテーターが行うはずはなく、それら行為も目的も「余計なお世話」でしかありません。
では私たちにファシリテーションのように映る行為の正体はなんでしょう?
ここではホスティングとリーダーシップという2つの機能を挙げることができそうです。
ホスティングとは、お客さんをもてなすこと。
快適なプレイ環境を整えようとする心遣いです。例えば:
笑顔での挨拶。
礼。
清潔なテーブル。
適切な室温。
さりげなく飾られた生花。
これらはゲーム過程に介入するのではなく、遊びへと気持ちよく没頭できるよう一人ひとりをケアする行為です。
リーダーシップとは、狭く捉えると先導する行為。
広く捉えれば上記ホスティングも含むでしょう(集団維持機能)。
例えば、「このゲームをやりませんか?」と提案する。あるいは、「ルールを説明しますね」と申し出る。これらは一時的で機能的なリーダーシップです。
さらにこのような提案に乗っかり、ルール説明に耳を傾けるフォロワーシップも、リーダーシップ機能の一種です。
これらは固定的な役割ではなく、その場の誰もが発揮しうる動的な機能にすぎません。
ホスティングにもリーダーシップにも、その根底にあるものは人間関係の問題です。
つまり、機能や技法ではないのです。
例えば、「インスト」という現象。
これは日本においては、ルール説明を指して使われる語です。
英語でinstructionというと指示や命令のニュアンスを帯びます。
このインストは、「わかりやすい説明の技術」とか「遊び手に遊び方が伝わる機能」といった問題には行き着きません。
むしろ本質は、「この説明してくれている人が、なんだか人間的にいいな」と感じられるカジュアルな好意や、「自分の拙い説明に、気遣いの相槌を打ちながら聞いてくれて助かるな」と感じる感謝といった、人間関係の構築や維持自体にあります。
私たちは、例えばインストという儀式を通じて、ルールの向こう側にいる他者の人間性を知り合い、関係を結んだり強めたりしているのです。
ボードゲームで遊ぶ場で、誰かの「ファシリテーション」がなければ楽しく遊べないような関係は不健全です。
そのような介入があろうがなかろうが、どのような場でもお互いがお互いを気遣い、ケアし合う、複雑で豊かな人間関係は常にそこに存在しています。
抽象的な話が続いたかもしれませんが、なんのことはありません。身近な人に、「ねえ、このゲームで一緒に遊びませんか?」と、そう声をかけてみましょう。
その影響力(リーダーシップ)の行使と、相手へのもてなしの心に、ボードゲームでテーブルを囲む文化の、最も豊かな入り口があるのだと思います。
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