これはゲームなのか?展3の『生き死に骰子』
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『生き死に骰子』
5面には「生」と、残る1面には「死」の文字が刻印されています。
このダイスすべてを振るというゲーム。
1つ1つのダイスのサイズが存外大きくて、男性の大きな手でも3つを掴むのが精一杯。
とうてい片手だけで全ダイスを振ることはできない。
筆者は、脱いだコートを脇に抱え、両手で全ダイスを抱え込むように持ち上げて、どれか1つでもがこぼれ落ちないように気をつけながらダイスを振りました。
このゲームが、展覧会名である「これはゲームなのか?」という問いは傍に置くとして、
「もし、全ダイス『死』が出たら?」
という確率論を超えた、どこか背筋が冷たくなるような予感が走る体験。 私たちは普段、誰とでも交換可能な「世人 das Man」として、「人はいつか死ぬ(けれど、今はまだ死なない)」という一般論の中で生き、自分の「死」を忘れて生きている。 しかし「死」はいつか必ず、私だけに訪れる。誰とも代わってもらえない出来事。
この「死」の可能性を直視し、先取りして引き受ける覚悟(先駆的決意性)を持ったとき、人は初めて、他の誰でもない「本来的な私」を取り戻すことができる、と。 この「生」と「死」のダイスを振るとき、その瞬間だけは、世人の“声”から離れ、ハイデガーの言う孤独な「死」との対話へと引きづり込まれるのかもしれない。
しかし、『生き死に骰子』の仕掛けは、このダイスだけではありませんでした。
ダイスが振られるテーブルは、一見するとただの台なのですが、その天板の下には和太鼓の皮が張られているのだと思います(おそらく)。
実際にこの目で見たわけではないので、推測です。
両手で抱えた6つの大きなダイスを同時にテーブルに落とすと、「ドンッ!」という、腹に響くような重低音が鳴ります。
さらに、ダイスがテーブルから飛び出さないように設けられた木の囲いに、硬い木製のダイスがぶつかると、まるで太鼓の縁をバチで叩いたかのような「カカカッ!」「カッ!」という乾いた音が響きます。
ダイスを振るたびに、この「ドンッ!カカカッ!」という音が、大きく鳴るように仕掛けられているのがこのゲームでした。
知覚する身体と知覚される世界とが、互いに切り離せないことを、肉 chair と表現したのはメルロ=ポンティでした。 この展覧会の会場で、(別の作品を鑑賞しているとき)「ドンッ!カカカッ!」という大きな音が聞こえてきたとき、私はそのダイスを振った他者の姿を見ておらずとも、彼/彼女があの大きなダイスを両手で抱え、振ったのだろうな、ということを実感として持つことができる。
会場は、そんなに広くない上、壁などで仕切られてもいないので、この大きな音は頻繁に会場全体に鳴り響きます。
私の(さっきダイスを振った)身体の記憶(重み、大きさ)と、他者の行為(聞こえてくる音)が、見えない糸で結ばれ共振する(ないしは、させられる)。
この音は、否が応でも私の身体(聴覚器官である耳)を震わせる。あるいは、私が鳴らした音が他者に(勝手に)届くように、他者の音も私の身体へと届けられる。
このとき、私と他者は、別々の個体として切り離されているのではなく、「重み」という身体感覚と、「音」という振動を共有し合う「間身体的 intercorporéité」な場(あるいは、根源的な「大地」)において、深くつながることになる。
ハイデガー的な「死」の孤独な予感は、この強制的な感覚共有によって破られ、他者との共振に変容する。
ハイデガー的な「死」の沈黙に対して、アーレントは、人間が世界において新たなことを始める能力を natality とポジティブに捉えています。
他者の音が私に響くとき、あるいは、私の音が他者に響くとき、それは会場のノイズなんかではなくて、この「人工的世界」に新しい何かが生まれたことなのかもしれません。
アーレントにとっての「世界」は、例えばテーブルのような「制作 work」によって構成されるものなので。
第二に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。しかし、ここでいう世界とは地球とか自然のことではない。地球とか自然は、人びとがその中を動き、有機的生命の一般的条件となっている限定的な空間にすぎない。むしろ、ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらに、この人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに坐っている人びとの真中(ビトウイーン)に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者(イン・ビトウイーン)と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。 via. アーレント『人間の条件』(志水訳)
このゲームのテーマは、一見すると「死」との直面だったのだと思います。
しかし、身体(メルロ=ポンティ)を介して行われた会場におけるプレイが生み出したのは、ハイデガーの弟子であったアーレントが反転させた、他者と共生する騒がしくも新しい「生」の音だったのかもしれません。
『生き死に骰子』、哲学的な遊びだなあと思った次第。