マルクス・アウレリウス『自省録』 2019年4月 (100分 de 名著)
概要
アウレリウスは哲学に生きたかった
「善く」を名詞化した「善」はギリシア語では道徳的な意味はなく、自分のためになるという意味です。
善い人とは
もやは善い人とはいかなるものかを議論するのはきっぱりやめ、実際にそのような人間であること
最初に現れる表象が伝えること以上のことを自分にいうな。何某がお前のことを悪く行っていると告げられた。それは確かに告げられた。だが、お前がそれによって害を受けたとは告げられなかった。私の子どもが病気であるのを私は見る。確かに見ている。しかし、危険な状態であるとはみていない。このように常に最初の表象にとどまり、自分の内から何一つ良い足すな。そうすれば、お前には何事も起こらない。むしろ宇宙に起こるすべてのものを知っているものとして良い足せ。
お前が何か外にあるもののために苦しんでいるのであれば、お前を悩ますのは、その外なるものそれ自体ではなく、それについてのお前の判断なのだ。
物事は魂にふれることなく、お前の外に静かにある。苦悩はお前の内なる判断からだけ生じる。
災いはどこにあるのか。災いについてはお前の思いなす部分があるところにだ。
判断を取りされ。そうすれば、「害された」(という判断)は取り除かれる。
周囲の目を気にしたり、相手の反応や顔色を窺ったり、他人の心に注意を奪われてしまうことがあります。周りの人が何を考え、どう思っているかは、どんなに考えても基本的にはわかりません。もちろん、自分のことなら分かるといえばこれも簡単にはわかりません。だからこそ、自分の心の動きをみつめなければならないのです。
他人が何かをするかしないかには何も求められない
他の人は自分の期待を満たすために生きているわけではありません。それなのに、期待してしまい、その期待を他人が満たさない時に怒りを感じてしまうことがあります。
いまここを生きる
お前がこんな目に遭うのは当然だ。今日善くなるよりも、明日善くなろうとしているからだ。
枝は隣の枝から切り離されたら、木全体からも切り離されないわけにはいかない。まさにそのように、人間も一人の人間から引き離されたら、共同体(コイノーニア)全体から離脱することになる。ところで、枝は(枝とは)別の者が切り離すが、人間は隣人を憎み背を向けることで、自分で自分を隣人から分離する。しかし、同時に共同体からも自分を切り離してしまうことになるのを知らない。