ヤスオ:物語「兄弟の絆」
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泣き声がする方を見ると、そこには一人の少年がいた。六つ、もしくは七つ目の夏を迎えたくらいの齢だろうか。
少年は俺に背を向け、白樹の高木の前であぐらをかいて座り込んでいる。泣き声は次第に落ち着き、しゃっくり混じりのすすり泣きへと変わっていった。俺は森の端で立ち止まって振り返り、眼下の道の暗がりを見た。真昼の太陽は容赦なく、少年がいる牧草地に眩しい光を注ぎ込んでいる。少年は怪我をしているようには見えない。空き地は広々として、無防備だった。
“お前の助けは不要だ。己の行く道を離れるな”
頭の中ではっきりと声が響いた。その声を聞いたのは久しぶりだった。俺は踵を返したが、苦し気な深い溜め息が、また小さなすすり泣きに変わるのを耳にして考え直した。
俺は少年から刀三本分ほど離れた所まで近付くと、乾いた小枝をわざと踏み、自分が来たことを知らせた。少年はその音を聞いて話し始めた。
「テオ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ…」少年は慌ててそう謝ったが、袖で顔を覆っていたため、その声はくぐもっていた。だが俺を目にして凍り付いたように動きを止めた。
少年が素早く後退すると、背中が木にドスンとぶつかった。
「母さんは同胞団にお金を払ったよ」少年はしどろもどろになりながら言った。「道で遊んでたわけじゃないんだ」 その組織の名前を聞いた俺は、とっさに刀に手を伸ばした。少年が俺を見つめる。泣き声は浅い息切れへと変わっていた。なるほど。少年は俺がナヴォリの盗賊で、何かを奪いに来たと思っているらしい。 “お前は犯罪者だと思われている”
俺は刀から手を放し、もっと友好的に見えるように努めた。「違う、同胞団の者ではない」俺はそう言った。「人の声が聞こえたのでな。辛そうな様子だったので来てみたのだが」 少年は、目の前に立っている見知らぬ人にみっともないところを見せまいと、涙で濡れた頬をもう一度袖で拭った。
「誰か見なかったか?」俺は尋ねた。
少年はゆっくりと首を横に振り始めたが、耐えられずに本当のことを漏らした。
「僕だよ」少年は認めたが、恥ずかしさからかその口調はぞんざいだった。「ぼ…僕、遊びたかっただけなんだ」少年はそう言うと頭の上を指差した。木の梢に古い祭り用の凧が引っ掛かっており、絹でできた凧の尾がそよ風に吹かれて揺れている。「テオの凧だよ」
少年の目が再び涙で潤み始めた。少年は俺に向かって両手を開いて見せた。両の手が樹液に覆われ、土と樹皮で汚れて黒ずんでいた。
「木を登ろうとしたんだけど、すごく高くて。テオはすごく怒るだろうな。遊ぶなって言われてたのに」
二人の間に一瞬の沈黙が流れた。「兄弟にはよくあることだ」俺は呟いた。
少年の前の地面に小さな土の山ができている。俺が膝をついて土の山の天辺を払ってみると、発芽したばかりの白樹の木の実が現れた。
「母さんは木の編み手なんだ。僕は修行中。だからそれを…」少年は、言ったそばから恥ずかしそうにうなだれた。幼木を編み出すのですら、優に半日以上はかかるものだ。
俺は微笑まないように堪えた。「立派じゃないか」
少年の視線は、俺の肩甲の波型の縁取りに釘付けになっている。
「僕たちの村の模様じゃないね」少年が警戒するような声でそう言った。「隣の谷の村の模様でもない」
「俺はウェイ=レに向かっている途中だ」俺が答えた。「ノクサスの道を順調に進んできた。石の地面は少々足に堪えるがな」俺は笑みを浮かべようとしたが、ノクサスが少しでも役に立つものを残したと思うと自然と口元が歪んだ。 「助けてくれる?」少年が問いかけた。
俺は高い梢にそっと引っ掛かっている凧を見上げた。「俺はもう長いこと木登りなどしていないぞ、坊主」
「ジョアブ」少年が言った。「僕の名前はジョアブっていうんだ」
俺は名乗るのをためらいながらも、少年に手を差し出した。恥を感じずに自分の名を口にしたのは、随分と昔のことだった。
“おいおい。もっと酷い呼ばれ方もされてきただろう”
「ヤスオだ」俺はそう言うと、ジョアブを引っ張って立ち上がらせた。 俺は木陰から一歩出て日向に戻ると、空き地をよく眺めた。風のない暑い日だった。俺は目を閉じ、牧草地の端にわずかに残っている空気の流れを感じた。小さなそよ風が立ち、顔にかかっていた髪の束が押し上げられる。
「吹き飛ばせたらいいのにな。木編みなんて役に立たないよ」ジョアブはしかめっ面で凧を見てから、先ほどの白樹の木の実を見た。「風を操ることができるお爺さんがいたんだけど、死んじゃったんだ。お爺さんの弟子も同じことができたけど、その人は危険で、お爺さんを殺したんだって母さんが言ってた…」
俺は腰の刀に手を伸ばした。そのまま鞘から刀を引き抜き、魔力を集中させる。風の渦が刀の周りを旋回し、集まった風がどんどん強く渦巻いていく。埃と枯れ葉が刃の上で踊り、思い通りの旋風が完成すると、俺は手首を振ってそれを放った。
目に見えない力が絶妙に木にぶつかると、その衝撃で幹が震えた。見えざる精霊が木の内側を登っていくかのように枝が揺れ、最後には凧に到達した。空気が上空に抜けると、色とりどりの絹がそっと浮き上がって宙を漂い、俺が差し出した手の中にゆっくりと舞い込んだ。
ジョアブは束の間口をあんぐりと開けていたが、すぐに閉じた。恐怖が戻ってきたのだ。
「まさか」ジョアブが尋ねた。「お爺さんの弟子?」
ジョアブは林道の方を見た。誰かが俺を捕まえに来ることを期待しているのかもしれない。「逃げてきたの?」ジョアブがそう囁いたが、俺は首を横に振った。「じゃあ、逃がしてもらえたの?つまり、許してもらえたの?」
「犯していない罪に許しも何もない」細かいことだが、俺は頭の中の声に話す隙を与えずにそう言った。
“だが他の者たちを殺めただろう…”
俺は深呼吸をして、背中に感じる涼しいそよ風と、手の中にある凧に意識を集中させ、記憶が蘇るのを食い止めた。ジョアブは少しの間自分の考えに浸っていた。
そして彼が別の質問をしようと口を開いた時、森から現れた金属が太陽の光を捉えて輝いた。
俺は念のため刀を構えたが、ジョアブに良く似た少しだけ年上の少年が、長いロープに付いた小さな農具を運んできただけだった。俺はすぐに武器を下げたが手遅れだった──恐怖と警戒心が牧草地を覆う。
“動くには早すぎ、止めるには遅すぎる”
いつも足りなかった。これはまさに俺の全人生の縮図だった。
ジョアブの兄が俺たちを見ている。彼は安全な森の端を離れなかった。
「ジョアブ」年上の少年が呼びかける。ジョアブは素直に兄に駆け寄ったが、農具とロープを見て足を止めた。俺はそよ風を引き寄せて、緊張しながら聞き耳を立てた。
「テオ、それ何に使うの?」ジョアブが尋ね、答えに気付いて怒りはじめた。「僕が凧を使うって分かってたの?」
俺は首を振った。もちろん兄は分かっていただろう。
“兄というものは、弟が何をするのか常に分かっているものだ”
「ああ。お前は俺の言うことと逆のことばかりするだろ、ジョアブ」年上の少年が、まだ俺に目をやりながら答えた。「あの人は誰だ?」
ジョアブはちらりと振り返ると、兄の耳元に口を寄せて囁いた。テオは一瞬目を見開いたが、すぐに蔑むように顔をしかめた。
「母さんが飯の時間だって」テオが、その場を去ろうと振り返りながらそう言った。ジョアブがテオの腕を引っ張り、歩みを遅らせようとしている。ジョアブがまたテオの耳元で何かを囁いた。
俺は次の言葉を運んでくる風を静めて、盗み聞きを止めようとしたが間に合わなかった。
「だめだ、連れて行けないよ」テオが言った。「あの人はシーリだ」
“シーリ”
周囲の風がようやく止まると、その言葉が喉につかえたような気がした。「シーリ」とは望まれないもののことだ。よそ者や、欲によってもたらされた不幸。“兄に付きまとう小さな害虫…”
太陽が照り付け、腰に収めた刀が熱を持つ。それは俺が生涯聞き続けてきた言葉だった。
“お前は必要とされていない。己の道を離れるな”
俺は覚悟を決め、兄弟に向かって歩いて行った。
「兄貴の言うことを聞け、坊主」俺は大事な絹の塊をジョアブに手渡して言った。「兄弟は一番の理解者だ」
どちらかが答える前に、俺は歩みを進めて元の路へと戻った。