房主挨拶
日常意匠研究室を主宰するのは、本学において数少ない人文系(それも非・言語教育系)の教員です。なぜそんな教員が本学に所属しているのか? との世間の凝り固まった常識を打破すべく、これまで取り組んで来ました。
本学の公式サイトでは、以下のように挨拶してます。
日本語には「ものになる」との表現があります。一人前の人物(者/腕前)になる、習い覚えた技が身につく、等々の意味です。「ものになる」ためには、社会の中で学ぶ姿勢を、身につけなければなりません。私自身、まがりなりにも教員として「ものになる」ことができているとすれば、これまで対面した学生諸君から様々に学んだ結果です。これから対面する学生諸君にも「ものづくり」を通して「ものになる」ように、ともに学びたいと願ってます。
上掲の引用文中に「社会の中で学ぶ姿勢」とあります。ここで想定されている「学ぶ姿勢」は、在学中に教室の中でのみ必要とされるものでは、ありません。むしろ教室の外で、卒業した後に、ますます必要とされるであろう姿勢のことを指します。
学術的前提としては、たとえば『組織科学』48(2).特集/現場における学習の諸論稿を参照してください。
「社会の中で学ぶ」と同様に重要なのが、(学生諸君と)ともに学ぶ、の姿勢です。とはいえ「中で/ともに」学ぶ、と言われても、なかなかピンとくるものでは、ありません。そこで本研究室では、キーワードとして〈日常意匠〉を掲げています。私たちの暮らし(=日常)は、どのようにデザイン(=意匠)されているのか? とはいえ、この疑問に対し犯人探しを企てると、たちまち陰謀論に陥ってしまうので、注意が必要です。もちろん、その側面を等閑視すべきではありませんが、むしろ無自覚なデザインのありようこそ、取り上げて検討すべき課題だと、本研究室では考えています。
「無自覚なデザイン」の一種に、「ヴァナキュラー建築」があります。たとえば世界各地で失われゆくヴァナキュラー建築工法11|Redshift_by_AUTODESKや建築×ITのこれからを考えるvol.1 「ヴァナキュラー建築との対立と共存」| BEAVER MEDIA|ArchiTech株式会社などを参照してください。
日常意匠を研究するために、特殊な訓練は必要ありません。ただし、常日頃は自覚していない「みる・きく・よむ・はなす・かく」等々の行為を自省し、少しだけ丁寧に取り組むことが、必要です。これら少しだけ丁寧に取り組む行為の総体について、とある卒業生は《一般社会では「できることが大前提」のスキル》と呼びました(一般社会では「できることが大前提」なのですから、特殊な訓練は必要ありません)。たとえば「 日常生活を〈現場〉にするために 」を読むと、その具体像を思い浮かべることができるでしょう。
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