doi221029@FSK
サードプレイスとしての京都民俗:四半世紀を迎える常連からの眺め
登壇者の並びとしては、政岡伸洋と島村恭則(敬称略/以下、同様)との間をつなぐ役目。
1990年代の京都において、制度としての「民俗学」専攻ではなかった報告者が、京都民俗学談話会に立ち寄ったところ、居心地が悪くはなかったので(00年代中盤やや危うかったけれども)立ち寄り続けているハナシ。
1995年前後:民俗学について(今にして思えば)かなりのバイアス。山折哲雄・大月隆寛・赤坂憲雄……等々の著作経由。
2005年前後:改称に伴う危機?
2015年前後:遊び(仕掛け)を楽める場に設えようと実験中。
論点
題目に掲げた「サードプレイス」の含意:ムラやコミュニティではなく、「ホーム」でもない。カフェのような心象風景。
1.個人が思いのまま出入りができ、もてなすことを要求されず、全員が心地良くくつろぐことができる中立地帯としてある
2.会員等アクセスに制限がなく、あまねく人々が入ることができる
3.会話が楽しく、活気で満ちている
4.アクセスがしやすく、中にいる人々が協調的である
5.常に「新参者」を快く受け容れる「常連」がいて、いつも心地良い空気をつくる ★★←私見では最重要!
6.日常に溶け込む簡素な外観(デザイン)をしている
7.明るく遊び場的な雰囲気を持っている ★←これも重要!
8.もうひとつの家、リビング、家族的な存在である
研究例会の案内が新聞に掲載されていた情報環境の意義(=オープンアクセス)
京都民俗学談話会に限らず、日本史研究会・藝能史研究会などなどの、京都の学術交流情報。
「それ、民俗学なの?(民俗学じゃないよね?)」とは言われなかった記憶……案外と大事なポイントだと、今にして思う。
もちろん資料を扱う適切さとかはツッコミがあったけども
2000年代(ゼロ年代)特に後半、適度な撹拌が生じたこと。←事前うちあわせでは失念していた!
所属学科には、地理学系と歴史学系(日・東・西)ともに教員がいたが、学外の学会活動に積極的だったのが地理学系で、歴史学系は消極的。
ツテのツテから文化人類学方面へ。
京都人類学研究会にも顔を出す/田中雅一 経由だったか。おそらく刷り込みに近い振る舞いになっている。
ツテのツテのツテくらいで、阪大日本学研究室まわりとオチカヅキになる。
黎明期:1995年前後
(いわゆる大学院・大学の「大綱化」以降=院生が大量発生した時代のこと)
1989年:地域文化学専攻・比較文化学専攻(いわゆる民博)
1992年:国際日本研究専攻(いわゆる日文研)
1999年:日本歴史研究専攻(いわゆる歴博)
特別共同利用研究員の制度を利用して、日文研へ。
1997年05月27日(火)菊地暁「そして僕らはなにが知りたかったのか」の民俗誌論:『七浦民俗誌』の経験から」@京都人類学研究会(NO.8)で、川村清志らと出会う。 この会場で、朽木量に出会う。
1998年:京都民俗談話会を認識し始めたころ(1998年については、島村も言及の予定)
田中緑紅や竹村俊則また今井啓一などを先行研究(言及)として列挙した記憶。
(2001年04月:ものつくり大学の開学と同時に着任、現在に至る)
2004年03月?『京都民俗』第20・21合併号【書評】
「京都を舞台とする妖怪・怪異研究:東アジア恠異学会編『怪異学の技法』を読む」
過渡期:2005年前後
(2010年04月:篠原徹、滋賀県立琵琶湖博物館へ。〜2019年03月)
(以降、日本民俗学会の理事には、京都民俗学会理事の誰かしらが就任)
(2007年03月11日(日)「茅葺き屋根修復のモノグラフ研究」@卒論発表会@成城大学、以後、断続的に参加)
実験期:2015年前後・以降
2015年11月?『京都民俗』第33号【新刊紹介】
村田和代ほか『市民の日本語へ:対話のためのコミュニケーションモデルを作る』&野村一夫『ゼミ入門:大学生の知的生活第一歩』