教材研究<学習研究<哲学研究<自己研究
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今までの教育は、このピラミッドのように学びを見ていた。各教科に関する基本的な知識技能・思考判断表現を獲得させ、資質能力見方考え方といった「深い学び」を実現しようというピラミッドである。
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ではそれはどこにあるのか。それを見るには「教科学習」のピラミッドの土台に目を向けなければならない。
そこは「学び方を学ぶ」という領域である。つまり「教材研究」の前に「学ぶとはどういうことか」という「学習研究」をする、という視点がないと、「主体的に学習に向かう態度」が現れる空間を作ることはできないのである。
「教材研究」はいいんだけどさ、教材を「学習」するんだったら「学習研究」も必要でしょ?つまり「学習って何をすることなの?」ってこと。この答えの解像度が低かったら子どもたちは「教材」を楽しむことはできても「学習」ができるようにはならないんじゃない? 主体的に学習に向かう態度の評価が難しいとか、わからないとかいうのは、「教材研究」っていう世界でしか教室の学びを見ていないからじゃないかな。主体的に学習に向かう態度は、その下の「学習研究」の領域だと思う。つまり「学ぶって何?」ってことを考えてデザインしないと、それは見えてこない。 じゃあ、「学習研究」とは何をすることか。
学術的な領域で言えば「学習科学」の領域がそれに当たる。 https://scrapbox.io/files/64e4ac7c06cae7001b69dd04.png
「学習研究」はいいんだけどさ、学習を「生活」に活かすのなら「生活研究」も必要でしょ?つまり「生活って何をすることなの?」ってこと。
「教材研究(水色△)」と「学級経営的な研究(オレンジ△)」はよく意識されているが、「学習研究(緑△)」っていう視点がぽっかり抜けているケースが多い。その結果、学級経営と学習指導がバラバラになっているということがある。
道徳の授業が抱える問題もまさにここで、授業の学びが授業だけで閉じてしまっているのはなぜか。「頭で理解したことを、実際の行動に移す機会と、方法と、その価値」についての指導が甘いからではないか。
それを真ん中の「けテぶれ×QNKS」の指導によって保証する。そして、「より良く生きようとしたとき、その”よさ”とはなにか。を分解し再構成する。心マトリクス 更にそのしたにもまだ土台となるものがある。
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「自己研究」まで視野に入れると、ここまで示してきたピラミッドの図が解体し、円環する。(構造を描こうとするとき僕はこの”円環”に行き着くことで完了をみる)
で、円環したことで気づくわけですよ。
「教材研究」が一番上に来てるけど、それが最上位目標でいいのか?っていう。
そうじゃないでしょ。教育の目的はなに?
全部が「人格の完成」に向けた試みでなければならないんですよ。それが「目的」と「目標」の関係ですよ。
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子どもたちは「学習研究」として”けテぶれ,QNKS”をテキストとし、自身の学習経験を学習材とし、学習研究をする。そこから、「なぜ学ぶか、なぜ生きるか、自由とはなにか」という哲学研究へ、そして「自分とはなにか」という自己研究へと進めていくベクトルがある。その先に「自己」からみた教材に出会う 逆ベクトルも同時に発生する。学習研究はもちろん教科の教材をもとに行う。こういう構造で授業をしていると、授業中は子どもたちと一緒に「教材研究」をしている感覚になる。
そこでの学習経験にこそ「自分」が映る。教科の好き嫌い、向き不向き、モチベーションの波。それが「自己研究」へとつながる.