飯事の考察
飯事について考察した論文なりエッセイは、探せば数限りなくでてくるのだろうとは思われる。そうしたものにあたってから考えた方が、色々と深まることもあるのだろうけれども、夢うつつに浮かんだ疑問の備忘的に。
飯事は、明らかに遊びと呼べる行為である。では、飯事はゲームと呼んでいいだろうか。ゲームとは呼びづらいような気がする。ゲームと呼ぶには、あまりにもルールに欠いているのではないか。飯事は多分に演劇的である。自分たち自身が観客である即興劇。
飯事における掟は、おそらくただひとつだけある。醒めてはいけない、ということだ。いや、もう少し厳密にいうと、醒めさせるような演技はマナー違反である、ということだ。
飯事とは、主題となる状況についての共通認識を成立させるために、モノを見立て、振る舞いのディテールを寄せ集めることである。状況を互いに諒解すること自体が目的であり、ゴールである。チームビルディングワークショップは、飯事ではない。親睦を深める、という大義名分があるからだ。
飯事では、具体的な成果や成果物が目指されることはない。勝ち負けなどというものがないのも自明である。飯事が、遊びではあるが、ゲームではない、ということは、そういうことだ。
子どもはどうして、飯事をするのか。他にやることがないから、という身も蓋もない答えが浮かぶ。飯事というのは、やることがなくなったときの、最後の砦なのかもしれない。世界を理解しようとか、友達を作ろうとか、そういうことではない。非常に個人的なものであるように思える。なんだか面白いからやっている。始まってしまったから続けている。何人かが寄り集まって、一緒に見る、夢のようなもの。
こうして考えてみると、プロジェクトと飯事と、なにも変わらないように思える。もちろん、社会的に財と認められるものを動かす、という点においては、全くもって異なるわけだけれども。一方で、プロジェクトという行為のもっとも中核にある思考の原理は、飯事のそれと、深い部分で通じ合っている。