言語を通した客観的意思表示の不可能性
言語化すれば、客観的になる、というイメージがあり、最近は、どこもかしこも、言語化、言語化とかしましい
しかし、冷静に考えると、それは勘違いである
言語化されたメッセージは、解釈されて成就するわけだが、解釈とは常に相手にイニシアティブが与えられている
もちろん、解釈の余地が乏しいメッセージングもある
例 朝食にこのリンゴを食べてください
メッセージングの解釈の幅を広げてみると、途端にややこしくなる
例 このリンゴをどうするかは、あなたの自由にしてください
この人が、本当に自由を提供してくれているのか、それともこのやりとりは、なにかしらの試金石なのか。
さらに、解釈の方向性を示唆するメタメッセージを含ませてみると、どうなるか
例 このリンゴをどうするかは、本当に、あなたの好きにしてくださいね、決して遠慮はなさらぬように
メッセージの裏腹さが、もっとわかりやすく表現されるような例もある
例 決して怒らないから、リンゴを食べたのか、食べなかったのか、正直に言ってご覧なさい
これはまぁ、一周回って「これから私はあなたを怒ります」と表現しているようなものだから、かえってわかりやすいと言えなくもない
もとい、この小論で、ダブルバインドの話をしたいわけではない
通常、人間が、なにかのメッセージをわざわざ表現するのは、わざわざ表現するというコストをかける理由があるからである
つまり、なんらかのメッセージを表現するという行為には、現状や現状から見通される近未来を否定する意図が、本来、組み込まれているのである
「Aせよ」という言明が、ただちに「Aするな」を意味することがしばしばあることを、私たちは経験的に、知っている
そして、相手の解釈能力や指向性によって、メッセージの受け取られ方が変動することも、知っている
ゆえに、メッセージを発する主体者は、どのようなメッセージングをすれば、相手が、こちらの期待する行動を取るのかを予測して表現を行うのが通常である
同時に、受け取り手もまた、出し手のなかにそのような思考プロセスが働いていることを前提として(あるいはどの程度働いているかを推定して)解釈を行うものである
このような思考プロセスは、どこかで歯止めをかけないと、無限ループしてしまう
なので、人間は、ほどほどのところで(思考するコストが結論の誤りが招くリスクを上回った時点で)推論を打ち切るようにできている
コミュニケーションのコストは、本来、人間にとって不快である
一方、文化やコードを共有している主体者同士のコミュニケーションは、それ自体が幸福をもたらすものである
同時に、不快な現象について、その仕組みを解明し攻略することに、快楽を見出す人もいる
振り返ってみれば、多くの人は、幸福と快楽の区別もついていないし、己が幸福を目指しているのか、快楽を目指しているのかをわざわざ意識の俎上にあげることもしないものである
加えて、上述したようなコミュニケーションの原理を無意識下に抱え込んだまま、本来通じ合っていない意思疎通が、「できている」と勘違いした状態で、それをしてまわっているのが、人間という存在なのである
冷静に考えると、そんなことで社会が運営できるわけがないように思えるわけだが、おそらく、人間の社会性とは、実はコミュニケーションが担保しているわけではなく、おそらく、リスクやコストの最小化メカニズムが鍵を握っているのだと思われる